三島由紀夫の系譜

平岡定太郎(さだたろう)

1863-1942年

帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。福島県知事などを歴任し、1908(明治41)年、第3代樺太庁長官となる。樺太の工業化を目指し、森林(エゾマツ・トドマツ)や炭田の開発に取り組む。三井物産木材部長の藤原銀次郎(1869-1960)に協力を求め、三井の社長・団琢磨が決断し、事業が開始された。林業、製紙パルプ工業、石炭鉱業、漁業・水産業が勃興していく。1914(大正3)年、公金流用疑惑をかけられ、辞任を余儀なくされる。

仮面の告白」には、<祖父が植民地の長官時代に起った疑獄事件で、部下の罪を引き受けて職を退いて>と書かれている。

 

平岡梓(あずさ)

1894-1976年

農商務省に入省

 

平岡公威(きみたけ)

1925-1970年

東京帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省

 

 

【出典・参考】

・「産経新聞」(令和5年1月4日付朝刊)

日ソ(露)関係史

 

 

1905年(明治38年)9月4日「ポーツマス条約」

日本全権小村寿太郎外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印。日露講和条約ともいう。

(講和内容の骨子)

  1. 日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
  2. 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  3. ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  4. ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
  5. ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  6. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
  7.  

1925年(大正14年)「日ソ基本条約」

樺太半島の北緯50度以北(北樺太)の石油・石炭開発権を日本が取得

 

 

【出典・参考】

政治体制

 

 

〇選挙権威主義

スウェーデンのV-Dem研究所が設けた、政治体制を区分するカテゴリーのひとつ。

複数政党が参加して選挙は行われるが、権力者はさまざまな手段で公正な競争を歪め、政権交代を防ぐ。「民主主義」を偽り、権力維持に利用する、と規定。

冷戦終結後、選挙権威主義国家が増加し、2021年には60か国に及ぶ。

ロシア、ウラジミール・プーチン政権

ベラルーシアレクサンドル・ルカシェンコ政権

ハンガリー、ビクトル・オルバン政権。「非自由主義的民主主義」を掲げる。

 

 

【出典・参考】

中国の政治体制

 

全国人民代表大会全人代

 

〇全国人民政治協商会議(政協)

白書「中国の民主」では、中国式の民主体制を「全過程人民民主」と呼ぶ。政策の立案から施行、修正など全過程で民衆の参加を保障している、政策の各段階で行う懇談会やパブリックコメントがその手段、という。その主要組織が助言機関とされる「政協」。共産党以外の小政党や少数民族、職能団体の代表が参加し、政府や全人代に意見を表明する。全国政協は毎年、全人代と同時期に開催される。

 

○論評

  • 習近平の指導理念「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」を特徴づけているのは「人民を中心とする」との考え方。これはポピュリズムに近い。反腐敗闘争や愛国主義教育、共同富裕などの政策はどれも人民の喝采を希求しているからだ。

 

 

【出典・参考】

  • 産経新聞」(令和5年1月4日付朝刊)
  • 同1月4日付夕刊

中井久夫

中井久夫は1934年生まれ、2022年死去。京大法学部進学後に医学部へ転籍。精神科医であり名エッセイストでもあった。専門は統合失調症の治療法研究。

解説は精神科医斎藤環

『「昭和」を送る』みすず書房

昭和天皇崩御4か月後に発表された。掲載誌は「文化会議」。単行本は2013年刊行。

架空のアメリカ人歴史家との対話という形式で語る。

昭和天皇は敵機の爆撃音にも微動だにしなかったという。大のカミナリ嫌いだったというから克己の所産だね。

生まれた時から、いかめしい老人たちが自分の前で緊張してかしこまっているという状況だね。なぜそうなのかわからないだろうね。とにかく、相手の緊張度に自分の緊張度の高さが合ってくるのは、対人関係一般においていえることだろう? 赤ん坊だってそうじゃないか。身体に慢性的に緊張が蓄積する。声帯が発声の前から緊張して、甲高い声になる。

大変なフロぎらいだったといわれるが、臨床経験からいうとリラックスすることを自分に許せない人だろうね。

しかし、競争とかそういうことは一切ないから、非常に純粋無垢な人にもなる――のだろうね。

昭和天皇が成長過程で置かれた立場に思いを巡らす。

天皇の幼い時など、最敬礼しつつ「このこわっぱが」と内心思っている臣下も少なくなかったろう。こういう微妙な二重性の毒気がどういう作用をするか。大体、責任を負わされて、しかも、自由裁量性が全然ないというのは、たいへん精神衛生に悪い。昭和天皇についていわれる、天衣無縫の天真爛漫さも精神の健康を守るためのものでありうる。意図的ということじゃなくてだよ。実際の昭和天皇は、”距離を置いて客観的にものを眺めること”detachmentのできる知的人物であると私は思う。

病跡学……精神医学の手法で天才や傑出人の創造過程を分析しようとする学問。これを昭和天皇に応用。競争がなくプレッシャーだけがある世界で生きていると天衣無縫となる。

「君側の奸コンプレックス」。日本人が天皇について考えるときの傾向。美智子妃バッシングなど天皇本人ではなく周囲の人を批判する。

「日本人は近代的自我がない」という知識人のコンプレックスがあるが、天皇に対する思いは英米に対する思いと似ている。天皇に期待する純粋さ、清潔さ、気品、伝統というイメージは英米に向けられるイメージと重なるところがある。アンビバレンツな感情。

危険な天皇が出てくる確率より危険な総理が出る確率が1000倍高い。昭和天皇は厳しい生活を強いられた。中井久夫はやたらと持ち上げるのではなく批判するのでもなく、天皇の尊厳を大事にしている。

戦争と平和 ある観察』人文書院

両者は対照的な概念ではない。戦争は進行していく「過程」であり、平和はゆらぎをもつが「状態」である。戦争は有限期間の「過程」であり、始まりがあり終わりがある。

戦争は語りやすく、新聞の紙面ひとつでも作りやすい。戦争の語りは叙事詩的になりうる。民衆には自己と指導者層との同一視が急速に行なわれる。単純明快な集団的統一感が優勢となり、選択肢のない社会を作る。

軍服は、青年には格別のいさぎよさ、ひきしまった感じ、澄んだ眼差しを与える。前線の兵士はもちろん、極端には戦死者を引き合いに出して、震災の時にも見られた「生存者罪悪感」という正常心理に訴え、戦争遂行の不首尾はみずからの努力が足りないゆえだと各人に責任を感じるようにさせる。人々は、したがって、表面的には道徳的となり、社会は平和時に比べて改善されたかにみえることすらある

戦争は容易に無秩序に向かうのに対して、秩序を立て直し維持し続けるのが平和。

秩序を維持する方が格段に難しいのは、部屋を散らかすのと片づけるのとの違いである。戦争では散らかす「過程」が優勢である。平和は維持であるから、唱え続けなければならない。すなわち持続的にエネルギーを注ぎ続けなければならない。しかも効果は目に見えないから、結果によって勇気づけられることはめったになく、あっても弱い。

平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しい。人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけをせず、「生き甲斐」を与えない。これらが「退屈」感を生む

時とともに若い時にも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争とはどういうものか、そうして、どのようにして終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる。戦争に対する民衆の心理的バリヤーもまた低下する。そして、ある日、人は戦争に直面する。

戦争は過程だから戦争は人の興味をひきたてる、かっこいいと思うストーリーになる。戦争映画などフィクションになりやすいが、平和は物語性が乏しく、人をひきつける物語は生まない。部屋は常に片づけておかなければ秩序が崩壊するのであり、平和は常に維持する努力を続けなければ戦争が起こる。

「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。

戦争開始直後、指導者が陥りがちなのは「願望思考」

ほとんどすべての指導層が戦争は一ヵ月か、たかだか三ヵ月のうちに自国の勝利によって終わると考える傾向がある。願望思考の破綻が明々白々となった後、容易に堕落して、「終結の仕方が見えないという形での堕落した戦争」となる。

長引く中で悲惨な出来事が起きる。兵士にもたらされる心の傷。

中井さんはミリオタだった。戦争のかっこよさは自分は知っている。その反省をこめて。「喪の作業」。

背筋が伸びるような「義」の精神が中井さんの著作に貫かれている。(以上、番組)

 

無類の軍艦好き・船舶好きで、子供のころから『ジェーン海軍年鑑』(英国発行)を読んでいたため、昭和9年生まれながらも戦時中の日本軍の戦果発表が誇張されていることに気づいていたと語った。

 

【出典・参考】

橋川文三と丸山眞男

橋川文三は1922年生まれで、丸山眞男の8歳下。東京帝大時代(卒業後?)に丸山のゼミで日本政治思想史を学ぶ。のち明治大学教授。1960年『日本浪曼派批判序説』を刊行し、戦後は黙殺されていた日本浪漫派の意義を問い直した。

丸山眞男

戦前の「超国家主義」を軍国主義ナショナリズムとして批判

橋川文三

超国家主義」を、生の拠り所である精神の故郷を失った当時の青年たちの自我の問題に起因するものとして捉え、丸山の見方を根底的に覆した。

 

近代主義のエリートだった丸山は西洋をモデルとしてものを考えたが、若き日に「日本浪漫派」の保田與重郎に惹かれた橋川は日本の歴史に愛情を持ち、日本人の最深部に絞殺の測鉛を垂らした。その文学的感受性の豊かさは乃木希典大将の「ロヤルティ」の根源を明らかにした日本思想史の傑作「乃木伝説の思想」などにも表れている。乃木をいわゆる軍神ではなく悲劇的な魂を持った詩人と見る透徹した眼差しがある。

渡辺京二は橋川『幕末明治人物誌』(中公文庫)の解説で、「橋川の仕事は少数者によってであれ、記憶され愛読され続けるだろう」と書く。

橋川の『明治の栄光』は「日本の百年」シリーズの第四巻であり、1900年から1912年までの期間の日本の歴史を扱っている。橋川は「この期間における最大の国民的事件は日露戦争と明治大帝の死、明治の終焉」と書く。この巻のタイトルが「明治の栄光」であるのは、明治という時代がひとつの叙事詩であったことを示している。

橋川は「この時期のことを日本国家の『古き良き時代』とみなすことは必ずしも不当ではない」「体制への満足と未来への楽観が支配していた時代」であり、その国民心理のシンボルが「明治大帝」であったとしている。

戦後の日本には、繁栄はあったが栄光はなかった。もし、未来への悲観が戦後の経済的な繁栄が失われていくことに由来するならば、そのような悲劇はノスタルジーに過ぎない「明治の栄光」は物質的な面ではなく「明治の精神」の偉大さにあり、それは日露戦争において発揮され、「明治大帝」の死に際して乃木大将の悲劇を生んだ。そして、次代以降の日本人に栄光の時代として記憶されたのである。

栄光は精神の義から生まれる詩である。(以上、新保祐司

 

コメント

「昭和の精神」というものはなかったのか。「明治の栄光」は物質的な面も少なくないように思える。

 

【出典・参考】

エリザベス女王

エリザベス女王:1926年4月21日~2022年9月8日(在位: 1952年2月6日 - 2022年9月8日)

 

国史上、最も在位期間が長かったエリザベス女王

1950年代、これほど注目されるワーキングマザーはいなかった。家族より職務の優先を求められ、エリザベスは葛藤しひどく苦しんだ。大きな犠牲を強いる女王の地位。

君主と母親。ふたつの役割を生きたエリザベス女王の生涯を辿る。

教育と戦争

エリザベスは元々君主となることを記載されていなかった。1926年に誕生したとき、父ヨーク公アルバート王子の王位継承順位は第2位。第1位はその兄のエドワード(後のエドワード八世)。祖父はジョージ五世。母であるヨーク公爵夫人(エリザベス・ボーズ=ライアン)は影でかなりの権力を振るっていた。のちに王太后に。意思が強く気骨がある女性だった。母から気丈さを受け継ぎ、人に好感をもたれる術も学んだ。

エリザベス王太后

エリザベス王太后

家庭教師のマリオン・クロフォード。16年にわたりエリザベスと妹のマーガレットに寄り添った人物。女性には教育は不要という旧来の保守的な教育観念がある中、クロフォードの教育方針は違った。王女たちを外の世界に誘うことが自分の責務だと考えた。博物館に連れて行ったり、地下鉄の乗り方を教える。そしてよりアカデミックな学習が必要と考えていた。しかし母が教育に口を挟む。王太后は女の子には教育は必要はないと考えていた。若い娘は結婚するものだった。いい結婚をすることだった。エリザベスは君主としての教育は受けていなかった。だが事態は急変する。

1936年、ジョージ五世が死去。叔父のエドワード八世が即位。わずか11か月で退位。父が即位(ジョージ六世)。ジョージ六世は国王の役割を担わなくてはならなくなったとき、むせび泣いたという。

このときエリザベスは推定相続人と呼ばれていた。ジョージ六世が男子をもうければその子が王位継承第一位となる。当時の英国は家父長制社会。君主の跡取りとなったとき、理想的な王位継承者とはみなされていなかった。

将来の女王となれば結婚相手は重要。ジョージ六世と王妃は貴族の未婚男性を探し出した。エリザベスは1939年、13歳の時にダートマス海軍兵学校で出会ったフィリップ王子*1(当時18歳)を結婚相手にと心に決めていた。問題は、フィリップ王子の母がドイツ系だったこと。エリザベスの母は兄が第一次大戦で戦死していたため王子に良い印象を持っていなかった。しかも、ふたりの姉もナチスの関係者と結婚していた。財産もない、外国の王子。理想的な配偶者とは言えなかった。ふたりの出会いから数か月後に第二次大戦が勃発。

1942年、エリザベス王女も軍に志願。肉体労働を厭わない姿。彼女が将来どんな女王になるのかを物語っていた。

1945年、WW2終結空爆の最中でもロンドンを離れなかった国王夫妻のおかげで王室の人気が高まる。

結婚

1946年夏、フィリップ王子がエリザベスにプロポーズ。エリザベスは両親に相談せず、受け入れる。父の指示で1年の婚約期間をもうけることに。この間、国王一家は南アフリカを訪問する4か月の船旅に。帰国後、婚約を発表。1947年11月、ウェストミンスター寺院で結婚式。翌年、チャールズ王子、その2年後にはアン王女が誕生。フィリップ殿下が初めて艦隊の指揮をとることになったとき(駆逐艦HMSチェッカーズ」の副長として)、夫の勤務地マルタに同行。最も幸福な期間だったかもしれない。

1952年2月、ジョージ六世死去。25歳でエリザベスが即位することに。訪問中のケニアから急遽帰国したとき、空港でチャーチル首相ら閣僚が出迎えた。

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

即位

1953年6月、戴冠式。新しい立場の重圧に加えて家族との関係にも頭を悩ますことに。王太后との関係がそのひとつ。新たなパワーバランス。実の娘が自分より立場が上となる。

エリザベス女王戴冠式

エリザベス女王戴冠式

さらに難しかったのはフィリップ殿下との関係。フィリップは軍から退かなければならなくなった。

若き女王の最大の試練は、マーガレット王女を巡る状況だった。仲の良い姉妹だった。戴冠式の直前、マーガレットは結婚したい相手がいると打ち明けた。ピーター・タウンゼントには離婚歴があった。1772年制定の王室婚姻法に定められているとおり、25歳未満の場合、女王の許可が必要だった。女王は英国国教会の長でもあった。チャーチル首相は反対。女王は時間稼ぎをし、3年後の25歳になるのを待った。マーガレットは結婚を諦めた。女王は妹の幸せより職務を優先したのだった。

1953年、半年間の英連邦歴訪の旅に出発。母であるより職務を優先させたことに批判を浴びることも。

家庭内のかじ取りはフィリップ殿下が担うことに。女王は常に女王であることを求められる。

1960年、第三子アンドルー王子を出産。女王は即位後でも子供をもうけた。

1964年、第四子エドワード王子を出産。女王は働く女性たちのためのロールモデルに。

君主としての適性には性別は関係ないことを証明。

ふたりの女性の登場

60年代~70年代、女性たちは平等を求めて戦い、1970年には男女間の賃金差別を禁じる同一賃金法も成立。そうした流れの中で、先端を行っていたはずの女王は時代遅れと見えるようになっていく。フェミニストでも革命の最先端にいたわけでもない。激動の60年代とは無縁の女性だった。

マーガレット・サッチャー

1979年、女性として初めて英国首相に。サッチャーは戦争を生き抜き、女王と年齢もほぼ同じ。だが似ているのはそこまで。女王が王家に生まれたことで、サッチャーは教育と勤勉によりその地位を築いた。水と油の関係。気が合っていたはずだが、女王は彼女の政治手法に不満をもっていたようだ。人頭税をめぐる争い、鉱山労働者ストライキの問題。サッチャーのやり方は不快なものだった。それが一定の政治的緊張を生んだ。

エリザベス女王とサッチャー首相

エリザベス女王サッチャー首相

ダイアナ

ダイアナ妃の誕生は英国王室を根底から揺さぶることに。目の覚めるような美しい女性が王室に入った。新しい価値観そのものだった。女王は伝統主義を重んじていた。父から受け継いだしきたりを大切に守り続けてきた。ダイアナは現状を変えようとしていた。ダイアナと子供の関係は親しいもの。チャールズ王太子は母とは距離があった。崇拝の対象だった。

夫妻の家庭問題は自然に解決することを望んでいた。介入せず、介入してもチャールズは受け入れなかったかもしれない。母と子の冷めた関係から。

チャールズ皇太子とダイアナ妃

チャールズ王太子とダイアナ妃

ダイアナが交通事故で死去。スコットランドのバルモラル城にとどまりロンドンに戻ってこないことへの不満が高まる。母を失った2人の子に寄り添うことが必要、気持ちを落ち着かせなければと女王は考えていたためだったが、当時は知られていなかった。職務より家族を優先させたのはこの1回だけだったにもかかわらず。予定を早めてロンドンへ戻り、国民へ演説。

王室改革

ダイアナの死後、傷ついた、年老いた女性として国民の目に映るようになった。女王に王室のあるべき姿を考えさせるターニングポイントとなった。新しい形で国民にもっと寄り添う必要があると考えるようになった。世論に耳を傾け、王室の改革をすすめる。

「税金の無駄遣い」という批判を受け所得税を支払うことに決め、住まいだった宮殿を公開。公務にあたる王族の人数を削減。王室の役割を女王とチャールズ王太子、その子供たちに限定し、スリム化をはかった。不祥事のリスクも減らせる。

2002年、王太后とマーガレット王女が相次いで亡くなる。いい意味でも悪い意味でも娘に強い影響力を与えていた。王太后の死は大きな転機。人は両親が生きている間は本当の大人になれないもの。

以前ほど堅苦しくない君主へとイメージチェンジをはかる。2014年、SNS開始。

2016年生誕90年。即位から64年が経っていた。自らのユニークな役割をこう表現した。

見ること、見られること

最も重要な役割は人々に姿を見せること。数えきれないほどの式典に出席してきた。

母として、女王として

生涯を通じて2つの立場の間で葛藤していた。一人の女性、母親、祖母としての立場と、女王としての立場。自分の子供たちに時間を費やせなかった分、孫と過ごす時間を大切にした。

2011年ウィリアム王子がケイトと結婚。ウィリアム王子の第一子を性別に関係なく王位継承第一位とするよう法改正を働きかけ、実現。

2018年、ハリー王子がメーガンと結婚。孫の世代が王室になじめるよう女王は努力。結婚式の一月後、メーガン妃を専用列車での宿泊の旅に同行させる。異例なことだった。メーガン妃が早く公務につきたいと望んだからだった。

子より孫と仲良くなるのはよく見られること。女王はウィリアム王子、ハリー王子との関係を大切にするように。

最後の数年間、家族の問題に直面した。ハリー王子が王室の公務から退くと決意したとき、女王が厳しい判断をくだした。ハリーの半分王室半分離脱の提案を却下。君主としての決意。君主としてけして譲れないことだった。

フィリップ殿下

「忍耐こそが幸福な結婚に不可欠。困難な時には欠かせない。女王が強い忍耐力をお持ちなのは私が保証します」

2021年4月、フィリップ殿下死去。女王は大きな喪失感を抱く。礼拝堂にうつむき加減でひとり座り、じっと下をみる女王の姿。棺をじっと見つめる女王。しかしわずか4日後、女王は公務にすぐ復帰。仕事を必要としていた。深い悲しみを少しは忘れることができただろうか。いかなる状況においても自らの役割を果たす決意。ヴィクトリア女王は夫の死後、何年も公に姿を見せなかったのと対照的だった。

フィリップ殿下の葬儀

フィリップ殿下の葬儀

フィリップ殿下の葬儀

フィリップ殿下の葬儀

カミラは晩年の女王を支えた。2012年在位60年式典。ダイアナの死から15年がたっていた。馬車で女王の隣にカミラを座らせた。カミラは将来の王妃となることを世界に向けて示した。長い間、宮廷内でカミラの名を出すことさえ許さなかった女王が。

君主としての献身的な奉仕の姿勢。

女王は継続性、安定性、確実性を象徴する存在。国民への奉仕を通じて私たちを勇気づけてくれた。

 

【出典・参考】

 

*1:父はギリシャ国王の四男、母はドイツ系のバッテンベルク家出身