エリザベス女王

エリザベス女王:1926年4月21日~2022年9月8日(在位: 1952年2月6日 - 2022年9月8日)

 

国史上、最も在位期間が長かったエリザベス女王

1950年代、これほど注目されるワーキングマザーはいなかった。家族より職務の優先を求められ、エリザベスは葛藤しひどく苦しんだ。大きな犠牲を強いる女王の地位。

君主と母親。ふたつの役割を生きたエリザベス女王の生涯を辿る。

教育と戦争

エリザベスは元々君主となることを記載されていなかった。1926年に誕生したとき、父ヨーク公アルバート王子の王位継承順位は第2位。第1位はその兄のエドワード(後のエドワード八世)。祖父はジョージ五世。母であるヨーク公爵夫人(エリザベス・ボーズ=ライアン)は影でかなりの権力を振るっていた。のちに王太后に。意思が強く気骨がある女性だった。母から気丈さを受け継ぎ、人に好感をもたれる術も学んだ。

エリザベス王太后

エリザベス王太后

家庭教師のマリオン・クロフォード。16年にわたりエリザベスと妹のマーガレットに寄り添った人物。女性には教育は不要という旧来の保守的な教育観念がある中、クロフォードの教育方針は違った。王女たちを外の世界に誘うことが自分の責務だと考えた。博物館に連れて行ったり、地下鉄の乗り方を教える。そしてよりアカデミックな学習が必要と考えていた。しかし母が教育に口を挟む。王太后は女の子には教育は必要はないと考えていた。若い娘は結婚するものだった。いい結婚をすることだった。エリザベスは君主としての教育は受けていなかった。だが事態は急変する。

1936年、ジョージ五世が死去。叔父のエドワード八世が即位。わずか11か月で退位。父が即位(ジョージ六世)。ジョージ六世は国王の役割を担わなくてはならなくなったとき、むせび泣いたという。

このときエリザベスは推定相続人と呼ばれていた。ジョージ六世が男子をもうければその子が王位継承第一位となる。当時の英国は家父長制社会。君主の跡取りとなったとき、理想的な王位継承者とはみなされていなかった。

将来の女王となれば結婚相手は重要。ジョージ六世と王妃は貴族の未婚男性を探し出した。エリザベスは1939年、13歳の時にダートマス海軍兵学校で出会ったフィリップ王子*1(当時18歳)を結婚相手にと心に決めていた。問題は、フィリップ王子の母がドイツ系だったこと。エリザベスの母は兄が第一次大戦で戦死していたため王子に良い印象を持っていなかった。しかも、ふたりの姉もナチスの関係者と結婚していた。財産もない、外国の王子。理想的な配偶者とは言えなかった。ふたりの出会いから数か月後に第二次大戦が勃発。

1942年、エリザベス王女も軍に志願。肉体労働を厭わない姿。彼女が将来どんな女王になるのかを物語っていた。

1945年、WW2終結空爆の最中でもロンドンを離れなかった国王夫妻のおかげで王室の人気が高まる。

結婚

1946年夏、フィリップ王子がエリザベスにプロポーズ。エリザベスは両親に相談せず、受け入れる。父の指示で1年の婚約期間をもうけることに。この間、国王一家は南アフリカを訪問する4か月の船旅に。帰国後、婚約を発表。1947年11月、ウェストミンスター寺院で結婚式。翌年、チャールズ王子、その2年後にはアン王女が誕生。フィリップ殿下が初めて艦隊の指揮をとることになったとき(駆逐艦HMSチェッカーズ」の副長として)、夫の勤務地マルタに同行。最も幸福な期間だったかもしれない。

1952年2月、ジョージ六世死去。25歳でエリザベスが即位することに。訪問中のケニアから急遽帰国したとき、空港でチャーチル首相ら閣僚が出迎えた。

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

エリザベス王女を出迎えるチャーチルら閣僚

即位

1953年6月、戴冠式。新しい立場の重圧に加えて家族との関係にも頭を悩ますことに。王太后との関係がそのひとつ。新たなパワーバランス。実の娘が自分より立場が上となる。

エリザベス女王戴冠式

エリザベス女王戴冠式

さらに難しかったのはフィリップ殿下との関係。フィリップは軍から退かなければならなくなった。

若き女王の最大の試練は、マーガレット王女を巡る状況だった。仲の良い姉妹だった。戴冠式の直前、マーガレットは結婚したい相手がいると打ち明けた。ピーター・タウンゼントには離婚歴があった。1772年制定の王室婚姻法に定められているとおり、25歳未満の場合、女王の許可が必要だった。女王は英国国教会の長でもあった。チャーチル首相は反対。女王は時間稼ぎをし、3年後の25歳になるのを待った。マーガレットは結婚を諦めた。女王は妹の幸せより職務を優先したのだった。

1953年、半年間の英連邦歴訪の旅に出発。母であるより職務を優先させたことに批判を浴びることも。

家庭内のかじ取りはフィリップ殿下が担うことに。女王は常に女王であることを求められる。

1960年、第三子アンドルー王子を出産。女王は即位後でも子供をもうけた。

1964年、第四子エドワード王子を出産。女王は働く女性たちのためのロールモデルに。

君主としての適性には性別は関係ないことを証明。

ふたりの女性の登場

60年代~70年代、女性たちは平等を求めて戦い、1970年には男女間の賃金差別を禁じる同一賃金法も成立。そうした流れの中で、先端を行っていたはずの女王は時代遅れと見えるようになっていく。フェミニストでも革命の最先端にいたわけでもない。激動の60年代とは無縁の女性だった。

マーガレット・サッチャー

1979年、女性として初めて英国首相に。サッチャーは戦争を生き抜き、女王と年齢もほぼ同じ。だが似ているのはそこまで。女王が王家に生まれたことで、サッチャーは教育と勤勉によりその地位を築いた。水と油の関係。気が合っていたはずだが、女王は彼女の政治手法に不満をもっていたようだ。人頭税をめぐる争い、鉱山労働者ストライキの問題。サッチャーのやり方は不快なものだった。それが一定の政治的緊張を生んだ。

エリザベス女王とサッチャー首相

エリザベス女王サッチャー首相

ダイアナ

ダイアナ妃の誕生は英国王室を根底から揺さぶることに。目の覚めるような美しい女性が王室に入った。新しい価値観そのものだった。女王は伝統主義を重んじていた。父から受け継いだしきたりを大切に守り続けてきた。ダイアナは現状を変えようとしていた。ダイアナと子供の関係は親しいもの。チャールズ王太子は母とは距離があった。崇拝の対象だった。

夫妻の家庭問題は自然に解決することを望んでいた。介入せず、介入してもチャールズは受け入れなかったかもしれない。母と子の冷めた関係から。

チャールズ皇太子とダイアナ妃

チャールズ王太子とダイアナ妃

ダイアナが交通事故で死去。スコットランドのバルモラル城にとどまりロンドンに戻ってこないことへの不満が高まる。母を失った2人の子に寄り添うことが必要、気持ちを落ち着かせなければと女王は考えていたためだったが、当時は知られていなかった。職務より家族を優先させたのはこの1回だけだったにもかかわらず。予定を早めてロンドンへ戻り、国民へ演説。

王室改革

ダイアナの死後、傷ついた、年老いた女性として国民の目に映るようになった。女王に王室のあるべき姿を考えさせるターニングポイントとなった。新しい形で国民にもっと寄り添う必要があると考えるようになった。世論に耳を傾け、王室の改革をすすめる。

「税金の無駄遣い」という批判を受け所得税を支払うことに決め、住まいだった宮殿を公開。公務にあたる王族の人数を削減。王室の役割を女王とチャールズ王太子、その子供たちに限定し、スリム化をはかった。不祥事のリスクも減らせる。

2002年、王太后とマーガレット王女が相次いで亡くなる。いい意味でも悪い意味でも娘に強い影響力を与えていた。王太后の死は大きな転機。人は両親が生きている間は本当の大人になれないもの。

以前ほど堅苦しくない君主へとイメージチェンジをはかる。2014年、SNS開始。

2016年生誕90年。即位から64年が経っていた。自らのユニークな役割をこう表現した。

見ること、見られること

最も重要な役割は人々に姿を見せること。数えきれないほどの式典に出席してきた。

母として、女王として

生涯を通じて2つの立場の間で葛藤していた。一人の女性、母親、祖母としての立場と、女王としての立場。自分の子供たちに時間を費やせなかった分、孫と過ごす時間を大切にした。

2011年ウィリアム王子がケイトと結婚。ウィリアム王子の第一子を性別に関係なく王位継承第一位とするよう法改正を働きかけ、実現。

2018年、ハリー王子がメーガンと結婚。孫の世代が王室になじめるよう女王は努力。結婚式の一月後、メーガン妃を専用列車での宿泊の旅に同行させる。異例なことだった。メーガン妃が早く公務につきたいと望んだからだった。

子より孫と仲良くなるのはよく見られること。女王はウィリアム王子、ハリー王子との関係を大切にするように。

最後の数年間、家族の問題に直面した。ハリー王子が王室の公務から退くと決意したとき、女王が厳しい判断をくだした。ハリーの半分王室半分離脱の提案を却下。君主としての決意。君主としてけして譲れないことだった。

フィリップ殿下

「忍耐こそが幸福な結婚に不可欠。困難な時には欠かせない。女王が強い忍耐力をお持ちなのは私が保証します」

2021年4月、フィリップ殿下死去。女王は大きな喪失感を抱く。礼拝堂にうつむき加減でひとり座り、じっと下をみる女王の姿。棺をじっと見つめる女王。しかしわずか4日後、女王は公務にすぐ復帰。仕事を必要としていた。深い悲しみを少しは忘れることができただろうか。いかなる状況においても自らの役割を果たす決意。ヴィクトリア女王は夫の死後、何年も公に姿を見せなかったのと対照的だった。

フィリップ殿下の葬儀

フィリップ殿下の葬儀

フィリップ殿下の葬儀

フィリップ殿下の葬儀

カミラは晩年の女王を支えた。2012年在位60年式典。ダイアナの死から15年がたっていた。馬車で女王の隣にカミラを座らせた。カミラは将来の王妃となることを世界に向けて示した。長い間、宮廷内でカミラの名を出すことさえ許さなかった女王が。

君主としての献身的な奉仕の姿勢。

女王は継続性、安定性、確実性を象徴する存在。国民への奉仕を通じて私たちを勇気づけてくれた。

 

【出典・参考】

 

*1:父はギリシャ国王の四男、母はドイツ系のバッテンベルク家出身