100年インタビュー 大江健三郎|NHK

本稿は2023年5月7日に再放送された「100年インタビュー 大江健三郎」(初回2010年放送)の文字起こし。 

 

長編小説『水死』

上梓したばかり。最初の原稿を1年半かかって書き、同じ時間をかけて書き直す。

最後の長編。50年前から書きたいと思っていた父親のことを書いた。高校生の頃に書こうと思っていた小説。9歳のとき、1944年、父親が突然死んだ。母が「これからは乱暴なことはしないように」と言った。なぜ死んだのか母は答えなかった。父親がどのように死んだかを空想してきた、ロマンチックな空想を。洪水のなかに父がひとり船に乗って乗り出していく、という夢をみていた。何度も小さなノートに書いた。

〈狙った岩の裂け目に頭を差し入れていた。〉〈水の底の流れにゆっくり動く父親〉

小説家になって15年ぐらいのときにひとつ小説を書いた。戦争が終わって動揺して、川に潜って考えた。そういう小説を書いて母に送った。父親の手紙を送ってほしいとお願いしたが送ってくれなかった。

母親が亡くなって10年以上経った。もう一度自分が考え直してみようと思ってやろうと思った。

軍国主義的な日本から民主主義の時代へ移った。その境目に私が川に潜って父親に事を想像して、そこに父親が川底で波に動かされていることを想像した。あのときに亡くなった父親と自分が会ったという気持ちをずっと持ってきた。そういうところからこの小説を始めようと思った。

 

友人たちとの別れ

〈60代となった大江は自ら「後期の仕事」と呼ぶ創作を始めた。敬愛する友人たちのとの別れがあった。武満徹1996年没、伊丹十三1997年没、サイード2003年没。〉

松山の高等学校で出会った人が伊丹十三という人。理学部に行こうと考えていた。数学の問題ならなんでも解けるような自信をもっているような子供だった。文学に関心をもったのは伊丹さんの影響。本も貸してくれる、音楽、絵も。渡辺一夫という先生の「フランス ルネサンス断章」という岩波新書があって、伊丹さんにすすめられて読んだ。この人に勉強を教わるために生まれてきたというようなことを考えた。そういう思い込みをするような人間なんです。

武満、伊丹が亡くなり、サイード白血病になり、自分は晩年の仕事を始めようと思った。

武満さんのお見舞いに行った。武満さんがカードを見せて、これから自分が作曲する音楽のリスト。20曲くらい。3分の2は赤鉛筆を引いてあって、残り3分の1をこれからやるんだ、と。こんな天才がいて、大きい才能をもって、これだけやっていこうとしている。このように生きていこうとする人生があるのに一挙に終わりになってしまうことがあるんだ。僕なんかのほうが危ない、自分がどれくらい生きるだろうか、どれだけ仕事ができるかと考えた。晩年の作品にかからなきゃいけないと思った。

一番大切な人たちが亡くなるということで、一緒に生きてきた世界が壊れるという感じがいつもする。サイードの本を全部読んできた。同じ世界に生きていて、この世界に生きているということを共有していて、共有している場面で本を読んでいるんだという気持ちがあった。それが壊れて、自分が考えている世界が虫食いが生じた感じになる。次第次第に自分の世界が壊れていっているところがある、自分が自分の力で築いていると思っていたこの世界に対する見方というものがいい加減で、そういう人たちが一緒に生きていてくれるから、自分にこの世界があるまとまりある、確固とした、確かさのあるものと感じられていたのではないか。そういうことを考えるようになったということが自分の死生観が変わってきたということだと思います。

 

大江文学、大江文体について

〈毎朝の散歩。歩いていると読む本がないから自分の進行している小説をやってみたり、文章の書き直しをやってみたりする。〉

「エラボレイト」。何度も作り直して念入りに仕上げていく、丹精する。最初の原稿はかなり自由に、僕の呼吸と小説の呼吸が大体同じであるような感じでかなり速いスピードで書く。もう一度、文体とはどういうものであるか、小説のイメージを考えて、少しずつ作り替えていく。外へ、自分の中にはいりながら外へ向かってだしていく。作品に形をつけていくのが作家の仕事と考えている。はじめのうちはイメージをはっきりしたいと思って直す。最後には最初のリズムと違ったリズム、違った呼吸のあるものに、作品として自然な文体にしていく。というのがこの10年ほど特にやっていること。

自分の文体は僕自身にはよくないとは感じられない。「奇妙な仕事」はノートに書いたものを移したもので直さなかった。ところが小説家になって、5年間くらい仕事しているうちに、これでいいのだろうか、自分が面白いと思うものを書いて載せてもらって。書いたものは全面的に検討してエラボレイトして作品化する、作り直すことが必要だと考えて、新しい文体を造るようになった。そうすると読みにくいし、ゴツゴツとしているし、イメージがひとつでいいところを、もう2つか3つイメージを書き込む。葡萄ひとふさのように。校正しているうちに息苦しくなってきて、読む人も息苦しくなるだろうと。正確にする、豊かにするため書き加えていくんですが、もう一度文章として読んで自然な呼吸の感覚がある、そういうすっとよめる。単純化したわけではない。この5冊の段階ではそういうふうにした。

声に出しては読まない。声に出さなくても声に出したと同じようなリズム、それで文章を検討することができる。音として読んだと同じような感じで文章をみていく。特にそのことを熱心に考えたのが「水死」。反省して。レイターワーク。積み上げ式の仕事ではなく、今度は削っていく、壊していく、含みこんだような書き直しというのを熱心にした。ものを記憶する習慣がある。3ページ分くらい夜直す。翌朝1時間くらい散歩する、昨日書いた文章を検討していく。夕方から書き直してみる。今のエラボレートの習慣。

安部公房はやることなすこと天才。武満徹も天才的な人。伊丹十三君も普通の人間じゃない、才能の塊。16-17からそうでした。そういう人と比べて自分は普通の人間なんだという気持ちが強くて、普通の人間として書いたものをそれ自体に特別な価値があるということは言えないと考えるようになった。自分が書いたものを意識的に検討すればいいんじゃないか、それが書き直しをはじめたひとつの理由。天才的な作家、いろんな作家の本を見本にして勉強していくっていうことを同時に始めた。本を読むことを仕事と同じくらい大切に思い始めた動機。40歳はじめから毎日外国語の20ページ読むことにした。原文で。日本語も。僕の本棚には外国の本がたくさんある。

エリオットの詩「荒地」を引用。訳と原文を併記。

文学で一番いいものは、天才的な人間が誰でも使う言葉を使って本当の文学作品を作ったと考えられるのは詩。フランス語でボードレールマラルメ、英語でオーデン、エリオットとか。外国語の詩を読んでも自分は本当はわかってないんじゃないかと思うようになった。本当に感動しているのだろうか。勉強しようとして英語の詩を読んでいるが、こういう翻訳を読むと本当に自分が感動するようなことが書かれている。日本人の優れた研究者、優れた文体の感覚を持った人が翻訳したものが本当にいいものだと。この英語の詩を読んでこういうふうに日本語で表現することはできない。ふたつを常に一緒に読んでみようと思った。2つの間の心の動き、言葉と言葉の闘いと協働みたいなものを考えるというのが、文学、詩を勉強する上での基本の方法。

小説を書くような人間はどんなにいい作品をみても自分が第三の流れを作っていくことができるといううぬぼれを持つものなんです。そういうことをやっているんです。

文語体も好きです。新しい言葉で書く、村上春樹さん、吉本ばななさんとかいろんな人たちが自分の生活の中で新しく作り出した文体で書くのはとてもいいこと。自分が生活の中でもっている言葉と、本で読んだ一昔前の日本語、江戸時代の散文を含めて、いろんな日本語を突き合わせて、違ったものが違った響きをもって、それがある音楽をつくるような文体というものを考えるのが僕が願っていること。

特に大正時代の作家、牧野信一梶井基次郎とか、彼らは外国語の文学をよく読んでる。牧野さんはギリシア語もよくできた。中島敦は漢語、中国語も読めるしスティーブンソン、ディケンズなんかもよく読んでる、英語もよくできる。外国語と日本語の響きあいのなかで自分の文章を作っていった人たち。それ以前は明治の新体詩。新しい日本語の散文をつくろうと思って、外国語の音の響きも翻訳にいかす、自分の日本語の文章のなかにいかす、外国語的な和音、メロディをとりいれたいという気持ちがあって、みんな外国語を勉強したと思う。森鷗外がそう、鷗外の翻訳。二葉亭四迷もロシア語をやってロシア語のリズムをいかす翻訳。外国のリズム、響きを文学にあまりとりいれなくなったのが昭和の文学だと思っている。

戦後文学の人たちは思想的に大きい重いものを書いた。文章がある種の軽さを失っていくのは仕方ないと考えた。椎名鱗三がそうだった。いい作家ですが。そういう伝統が続いている。僕などは外国語の響きを鳴り響かせながら新しい文体を作りたいと思ってきたのが僕の仕事で。ところが、そういうことを見事に達成して、外国語にそのまま訳したら外国人にとってもいい文学でありうるような日本語でも多くの読者を得るような文体を作りあげたのが村上春樹さんです。僕らは村上春樹さんのような大きい革命的な仕事はしていない。村上さんの本がたくさん読まれるのは当然だと思う。

批判もするが評価もする、若い作家の仕事を。村上さんは都市を書いている人。アメリカ文学でも、大きな都市ではなく、地方の都市で生きる人間を書く。中国人の憧れを表現する形で世界的な評価がある。

 

故郷

四国。自分が育った、自分の祖先たちが育った場所を、しっかり根付いたものを書きたい。その土地の持っている、非常に生き生きした深いもの。心の動き、感情の働きを表現するものとして場所をとらえて小説の中に表現したい。森、谷あい、川の流れ。

森を眺めて自分の祖先がここにやってきたんだなと考えたりするのが好きだった。それが僕の小説の場所だった。

僕のおばあさんがこう言っていた。この辺りに生まれた人はこの村で死ぬものだ、森の中に自分の樹木というものがあって、その木の下の方に魂が浅い地面のなかにいきていたのが谷間に降りてきて人間の赤ちゃんになる、死ぬと魂が森に上がっていって自分の木にいって、何年か何百年後かにまた生まれ変わるのを待つ。それがおばあさんの意見。これが僕が考えた僕の木なんです。

僕は都会の人間ではない、村の人間、谷間の人間だと思ってきた。小説の中で森というものに世界の大切なものが集中しているような場所を作って、そこにいる人間を通じて世界を変えてやろう。本当は四国の森ではなく世界の森。

フォークナーはヨクナパトーファ・カウンティーという場所、南部の町を考えて、戦争、不況の影響もある、夢を抱いてそこから出ていく人間、そこで悲劇を味わう人間もいる。大学4年生のときにフォークナーを全部読んだ。世界にありそうなものを全部書いてある。神、地獄、歴史。場所の実感が書けているからこそ、日本人の僕でも、世界を表現できるものがあるんだ、と。森の中に生きてきた祖先を一番大切に考えている人はいないと思った、僕がそこで自分の表現をしていこうと思った。

私という語り手によって書いて、語り手が自分の家庭を根拠地にして、障害をもつ子供と、友達の妹と結婚して、暮らして、自分の妹が地方に生きている。そういう場所にいる年をとった作家が自分の身辺に起こることとして小説を組み立てていくというのが僕の小説に基本。場所が限られるし、面白いとも感じられないことも知っているし、読者も限られることを知っている。そういう自分の限られた生活があってその背後に大きい森があって、森と自分と書くものとの間がパイプでつながれていて、パイプの中に自分の家庭もある、そういう人間として自分が生きているのだということを自分の文章で、できるだけ普遍的なイメージとして書いていく。外国語なんかも取り入れたり引用したりするという形で書くのが自分の文体としてしっくりくる。50年間そうしてきた。1万人なら1万人、3万人なら3万人の人に読まれて、外国でも毎週一度新しい翻訳の契約書が届く。2000人くらい外国にいる。広く読まれることはない。言葉という普遍的なもので書き、文学というやはり普遍的な形にすると広く伝わりうるものだと、狭いところで持ち続けて50年たった。「水死」という小説を終わってみると、そういうやり方は行き詰っているのだと小説の中で批判されているように思った。今の文体をつかって、新しい人物を書くことができたら、すっかり別の人たちに読んでもらえるかもしれない。新しい小説を書こうとしても、今まで積み重ねてきたものがそこの中に入り込んで来る。僕でも新しい小説を書こうと思っている。老人の奇怪な小説を書くかもしれない。カタストロフィーに至る小説を書くかもしれない。生涯最後に書く小説、一番最後が明るい小説になるんじゃないかという気持ちもある。

 

大江健三郎の自宅

原書はとっておく必要がある。読んだあとで参照するために。

渡辺一夫先生は最も美しい人でした。手紙とブリコラージュ。ブリコラージュというのは手仕事、自分のうちにある道具で造る工作、それが人間の心の働き、精神の働きにとって重要である。と先生は言っておられた。

伊丹十三君が自殺しました。NYTで知ったエドワード・サイードがFAX送ってくれた。「我々は強い人間で、感受性のある人間だから苦しい時でもやっていけるぜ」と書いてあるらしいんです。

人間は根本的にいいものだ、基本的に善良なものだ、どんな障害がある人も、彼が自然に変わっていく自然に少しでも成長していくということを、他の力が抑圧しなければ、妨害しなければ、彼には彼としての自分らしい表現があるということを考えるようになりました。40年以上、毎日ほぼ一緒に生きてきて、それを学びました。

苦しみがなくなるとは思わないです。だけども基本的には人間が生きていくというのは明るい方向へ生きていくという気持ちを常にもってきたと思うんです。その点が私が感じてること、未来に向かって考えることで、その明るさというものが、考えるという意思の行為としての明るさです、自分載せ勝では光と一緒にいるときずっと明るいものを与えられてきたということです。

僕は魂の専門家じゃないんです。魂はこういうものだと表現することもうまくいっているとは思わない。常に自分の心の中に自分一個の魂をはっきりつかまえていこう、少しでもいいものにしよう、明るいものにしよう気持ちをもっていて、それが僕のドゥーイング魂なんです。魂のことをするっていうことなんです。根拠は障害をもっている子供でも、光という人の心の中にある魂というふうに感じるものがいいものに、常になっていっている。ねじ曲がったりしない。それが僕の証拠なんです。魂のことをすれば魂というものはしっかりしたものになる。どんな時代でも、どんな世界でも。

根本的には人間について考える。人間とはどういうものか、人間らしさとはどういうことか、どんな悲劇的な状況でもこの人物が人間であり続けることはどういうことかということを、大体の小説は書いている。自分は日本語の文章でもって、本当のことだと表現したいことを表現する技術というものを努力して蓄えてきた、その方法だけを考えてきた人生だと思う。しっかり本当のことを言える技術、確信のようなもの、言葉ももっている。本当のことを書き続けて作家としての人生を終わろうと思っている。光のように言葉がはっきりない人間でも音楽を通じてそれを言っている。僕も本当のことを言う、前に向かって発言しようとする態度をもって、残りの人生を生きようと思っている。

 

九条の会

小田実井上ひさしらと結成。

いつも時代というものを考えるとき時代の精神というものを考える。時代と違った生き方をしている、時代を批判しながら生きていると感じる人間でも時代の精神の影響を受けているんじゃないかと思っている。子供だったけれども昭和前期の精神の影響も受けている、戦後の民主主義の時代の精神の影響も受けている。私の父がどのように死んだのかわからないけれども、国家主義的な、軍国主義的な思想をもった右翼的な思想をもっている若い軍人やそういう学問をしている学者たちとつきあいがあった。昭和前期の、恐ろしいと思いながら影響をうけていた。天皇が一番権力をもっていて、日本は世界で一番美しい国で立派な国で、世界を支配するようになる、そういう時代の精神に父親も影響を受けていたのではないか。しかも自分の中に実は、昭和の最初の精神というものが残っているところ、傷のようなものががあるんじゃないかわかるだろうと考えてね。

昭和の最初の精神には批判的でした。今も批判的ですが、ところがね、古いレコードのバッハの音楽なんです、カンタータの音楽、独唱カンタータなんですが、それをかけて、うちに来てお酒飲んだり遊んだりしている松山の部隊の青年将校みたいなものがいた。20代後半の。そういう人たちがドイツの歌だが日本的な言葉をつけて歌った。いい歌だなと思った。ずっとあとになってバッハの独唱カンタータ伊丹十三君のところで聴かせてもらって、すごく感動した。涙を流して。戦争の末期に軍国主義的な将校たちが考えていた、歌ったりお酒を飲んだりしていた。あのときの気持ちに子供ながら共感していたんだと発見せざるをえなかった。自分の中に、現在の民主主義時代の日本のなかにも昭和の精神というものは生きてところがあって、私たちの国が、民主主義、平和主義の、世界に通用する普遍的な文化を作るというふうな国民性や国の精神、時代精神と違ったものをもう一回採用するかもしれない。そういう国になるかもしれない。そういう恐れがあります。

時代精神というものを教えてくださったの方が渡辺一夫先生で、文学を教わったけども、この時代をどう考えていられるかということをよく話してくださった。それが僕の社会観、世界観をつくっている。先生は、この国が、戦争の時代、戦争中の日本の雰囲気というものがもう一度この国に戻ってくるという印象を自分はもっている、と常に言われる。戦後すぐに書かれた文章にもはっきり書いてある。同じことを考えていられたのが加藤周一さん。お医者さんでした。フランス文学の勉強もしていて、東大でも夜は空襲があった場合、火の用心をするための人々が交替で夜番する習慣があった。そこで渡辺先生がみんなと話をしながら徹夜する、そこに医学部を卒業した加藤周一さんも加わっていた。このような時代で軍国主義の日本になって、ヨーロッパの思想、アメリカの民主主義ということをまったく考えなくなっていることは異常なんだと、それに自分は反対なんだ、日本のインテリがこういうことを新聞に書いている、大学教授がラジオで話している、あれはすべて間違ってるんだ、国が滅びに向かっているんだと先生は常に言っていた。危ないから、先生はずっとフランス語で加藤さんたちと話しておられたようなんです。

加藤さんが戦争後になって、日本がどう進まなければならないかを書いた一番最初の短い論文がある。軍国主義的なもの、反民主主義的なものが始まればそれに抵抗することを言うのが知識人であって、そういう人を養成しなければならない。これからは知識人がどのように働いていくかというようなことを書いた文章なんです。日本の知識人とはこうものだ、こういうふうに生きていくものだと示すように生きられた。そして最後に「九条の会」ということも呼びかけられて、僕もその一人にいれていただいた。戦争が終わってもう60年だけれども、あらためてそういう知識人として社会に対して、世界の動きに対してそれは違うと言う声というものが必ずしも大きく響いていない、それが現代なのではないかというのが僕の不安なんです。それに対して僕なんかも反対するようなことをしたい。小説家が知識人であるかどうかはちょっと問題があるんですが、小説家として50年生きてきて、知識人として仕事をする、知識人として生きる、知識人として死ぬという方向にいたいと考えているんです。

 

「新しい人」

「新しい人」というのは英語の聖書で発見したんです。新しい人というのは、人間の歴史が始まって、キリスト教がおこる、そこでイエスという人が現われて、違った立場の人の若いということを考える、死んだ後に新しい平和の可能性を示したということがあったんだと。それを「新しい人」といったということを知った。それからあと2千年以上経ってます、特にイスラエル、それからパレスチナのことを考えると、そこで起こっていることは、どうしても和解できない、和解しあえない人たちがいるということです。僕が言いたいのは、若い人たち、特に中学生や高校生の人に講演したりそのための文章を書いたりもしたんですが、みんなが「新しい人」になってもらいたい。とにかく自分の仕事の一番の目的は、この世界に、この社会に、どうしても和解できない戦うほかないと考えている人に対して和解というものをもたらすというのが、新しい人間の考え方なんだと、「新しい人」の役割なんだと僕は書きたいと思ってきたんです。

和解をもたらすことができる状況にあるかどうかむずかしいことです。それに対して僕はひとつの答えをもっているんです。同い年の友人で、エドワードサイードという人がいて、彼はパレスチナの人たちの側に立って、イスラエルの人たちに訴えかける論文を書いて、彼はひとつのイスラエルという国家の中でパレスチナ人とイスラエル人との間が平和的に共同生活できる環境を作ろうというのが彼の政治的な主張なんです。その中で、彼が白血病になりました、6年苦しんで、本当に重くなって亡くなってしまった。亡くなる前に非常に悪い状態にもかかわらず、彼は楽観的だったというんですよ、何人もの友人が、奥さんもお嬢さんも僕にそう言われた。重い病気で病床にいるんだ、パレスチナのための言論活動もできないことは悲しいとお嬢さんの前で泣いたりもされたとお嬢さんに言われた。だがこういうイスラエルパレスチナの対立も、人間がやることなんだから、人間がやっていることなんだから、ついには解決するだろうと彼は言ったと。自分はこのような楽観主義、オプティミズムをもっているんだと、人間のやることだからある時が経って、経つうちに解決するだろうとそういう気持ちを持っている。自分が苦しいときに考えて、自分が意志の力として、自分がこういう意志をもってる、意志をもった人間の行動として、as an act of will、意志によってこういう行為をするんだと、こういう楽観主義をもっている。optimism as an act of willを持って自分は死んでいくんだと彼は言っていた。意志の行為としてのオプティミズムをもって、人間のやることなんだからこれは解決しなきゃいけないし解決できるんだと、それが若い人にすすめたいことで、そういう楽観主義を持とう、物事は解決するんだと、こういう苦難から人間はそれをやがて人間自身を開放するだろうというふうに考える意志の力として行為としてオプティミズムの人間、「新しい人」になってほしいというのが僕の考えです。

 

文学は純文学のみであると考えます。狭い意味で。文学ってものはね、本質的に本来純文学というべきものであって、純文学というのは「新しい人」を書くものです。今まで人間が知らなかったような人物を描くというのが新しい文学、文学に値するものの今までやってきたことなんです。例えば演劇です、ハムレットという人物をつくる、小説ではドン・キホーテという人物を作る、そういうことをしたのは全部文学です。純文学という言葉を使えば、私は文学はそういうもので、「新しい人」を作り出してみせるものなんだ、そのために文学者は働くんだと。「新しい人」をつくるために僕たちは文学をつくるんだし、僕たちの文学を読んで、古典を含めて、「新しい人」になろうとしてくれる方がいられれば、私は希望があると、その希望に文学も役割を果たすことができるというふうに考えているんです。

 

 

【出典・参考】

  1. NHK100年インタビュー 大江健三郎」2010年放送 2023年5月7日再放送