第1回 悲しむ人は幸いである ~「新約聖書 福音書」

講師:若松英輔

概要

エスの生涯を伝えるのが「福音書」。

「福音」とは「喜びの知らせ」のこと。救世主イエスが生まれてくださったことの喜び。

4つの福音書、「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」。それぞれで違うことが書いて場合もある。

エスの生涯は「誕生」「受洗」「宣教」「奇跡」「受難」「復活」に分けられる。

 

誕生

 神の使いが羊飼いたちの前に現われ、「大きな喜びの訪れをあなたがたに告げる。ダビデの町に、救い主が生まれた。この方こそ救世主。飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう」

 ヘロデ王は、イスラエルの民の統治者がベツレヘムに現われるという旧約聖書の予言が成就することを恐れ、イエスの命を狙う。ヨセフのもとに使いがあらわれ、一家は難を逃れる。ヘロデ王の死後、ナザレに居を移し、ここで育つ。

 「もうひとつの世界の王」をヘロデ王は恐れた。この世界は多くを持っているものが力を持ち、優れたものが上に行く。イエスが教えてくれる世界は「等しさの世界」。等しいというものは王には困る。民衆の上に立つゆえに。イエスの誕生という福音は民衆に伝えられた。ヘロデ王は2歳以下の子供をすべて殺すよう命じた。まっすぐ世界をみる子供を恐れた。幼子の心というものがどれほど重要かが説かれている。

受洗

 洗礼者ヨハネからイエスは洗礼を受ける。ヨハネユダヤ教だが、独自の集団をもっている。私は「水」で洗礼をあたえるが、ある方が「精霊」と「火」であなたがたに洗礼をお授けになる。「精霊」(神のはたらき)、目に見えない。「風」も同じ。あるはたらきがあなたがたを重要な道に導いてくれる。「火」は試練。

 イエスは神、神である存在が人間から大事なものを受け取った、イエスは弱い人間に寄り添う。

宣教

 ガリラヤの全土であらゆる病の人を癒した。その軌跡は評判を呼び、シリアからも人がやってきた。

「山上の説教」

自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人は幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人は幸いである。その人たちは神をみる。平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害されている人は幸いである。天の国はその人たちのものである。(「マタイによる福音書」5.3-10)

 貧しさとは、心のありようの不完全さのこと。我々は自分だけでは生きていけない。それを知る人間は幸いだ。みんながそうなんだと見えてくる。おのずと手を携えていくことになる。天の国はひとりでは行けない。天の門は開かない。転んでいる人と共に行けば天の門は開く。

 あなたが何かを愛したことはあなたが生きた悲しみがそれを証明している。

 みんな弱い、強がっていても弱いんだ、というのがイエスのメッセージ。

 神の前にみんな平等。自分だけが、というとき本当には満たされない、等しさに生きるものは満たされる。イエスの弟子に限らない、普通の人にもあてはまる。

「衣に触れる人を探す」

 月経の出血がとまらず悩む女性。12年も苦しみ、イエスを探し出す。

群衆に交じり、後ろのほうからイエスの衣に触れた。イエスの衣にさえ触れることができれば、救われるに違いないと思っていたからである。すると、立ちどころに血の源が乾いて、病気が治ったことを体に感じた。イエスもまたすぐに、ご自分の中から力の出ていったことに気づいて、群衆のほうを振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と仰せになった(「マルコによる福音書」5.27-30)

 これほど人が群がったなかで、イエスは触れた人を探そうとあたりを見まわす。

彼女は自分に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスのもとにひれ伏し、すべてをありのままに申しあげた。そこでイエスは仰せになった、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうこの病気に悩むことはない」(「マルコによる福音書」5.33-34)

 私たちの中には自分を癒すだけの力は備わっているのだということをイエスは教えた。

 イエスは苦しむ人の立場に立てる人。どんな人でもイエスの方から探してくれるというメッセージ。

マタイ

 収税所にいる徴税人マタイを弟子にした。徴税人は忌み嫌われる存在だった。イエスは徴税人や罪人と食事をともにした。ファリサイ派の人々が不思議に思い、尋ねた。イエスは答えた。

「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である。『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐れみである』ということが何を意味するか、学んできなさい。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 罪人とは的を外して生きている人々の意味。自分が良ければそれでいい、世の中でおこなわれていることはどうでもいい、そう思う人も罪人。私たちの罪を拒絶するのではなく共に生きるためにイエスは来た。

 イエスの考えの中に「裁き」がないというのが重要。

 我々の存在は誤りのゆえに飛躍するのではないか。聖書の中にはそういう人物が幾人もでてくる。虐げられ、冷たい目で見られた人たちがイエスのそばで深い経験をしていくというドラマがこれからでてくる。イエスはそういった人たちと寄り添っていく。

 

【出典】

・「100分de名著 ”新約聖書 福音書”(1)」NHK Eテレ 2023.4.3.放送