100年インタビュー 大江健三郎|NHK

本稿は2023年5月7日に再放送された「100年インタビュー 大江健三郎」(初回2010年放送)の文字起こし。 

 

長編小説『水死』

上梓したばかり。最初の原稿を1年半かかって書き、同じ時間をかけて書き直す。

最後の長編。50年前から書きたいと思っていた父親のことを書いた。高校生の頃に書こうと思っていた小説。9歳のとき、1944年、父親が突然死んだ。母が「これからは乱暴なことはしないように」と言った。なぜ死んだのか母は答えなかった。父親がどのように死んだかを空想してきた、ロマンチックな空想を。洪水のなかに父がひとり船に乗って乗り出していく、という夢をみていた。何度も小さなノートに書いた。

〈狙った岩の裂け目に頭を差し入れていた。〉〈水の底の流れにゆっくり動く父親〉

小説家になって15年ぐらいのときにひとつ小説を書いた。戦争が終わって動揺して、川に潜って考えた。そういう小説を書いて母に送った。父親の手紙を送ってほしいとお願いしたが送ってくれなかった。

母親が亡くなって10年以上経った。もう一度自分が考え直してみようと思ってやろうと思った。

軍国主義的な日本から民主主義の時代へ移った。その境目に私が川に潜って父親に事を想像して、そこに父親が川底で波に動かされていることを想像した。あのときに亡くなった父親と自分が会ったという気持ちをずっと持ってきた。そういうところからこの小説を始めようと思った。

 

友人たちとの別れ

〈60代となった大江は自ら「後期の仕事」と呼ぶ創作を始めた。敬愛する友人たちのとの別れがあった。武満徹1996年没、伊丹十三1997年没、サイード2003年没。〉

松山の高等学校で出会った人が伊丹十三という人。理学部に行こうと考えていた。数学の問題ならなんでも解けるような自信をもっているような子供だった。文学に関心をもったのは伊丹さんの影響。本も貸してくれる、音楽、絵も。渡辺一夫という先生の「フランス ルネサンス断章」という岩波新書があって、伊丹さんにすすめられて読んだ。この人に勉強を教わるために生まれてきたというようなことを考えた。そういう思い込みをするような人間なんです。

武満、伊丹が亡くなり、サイード白血病になり、自分は晩年の仕事を始めようと思った。

武満さんのお見舞いに行った。武満さんがカードを見せて、これから自分が作曲する音楽のリスト。20曲くらい。3分の2は赤鉛筆を引いてあって、残り3分の1をこれからやるんだ、と。こんな天才がいて、大きい才能をもって、これだけやっていこうとしている。このように生きていこうとする人生があるのに一挙に終わりになってしまうことがあるんだ。僕なんかのほうが危ない、自分がどれくらい生きるだろうか、どれだけ仕事ができるかと考えた。晩年の作品にかからなきゃいけないと思った。

一番大切な人たちが亡くなるということで、一緒に生きてきた世界が壊れるという感じがいつもする。サイードの本を全部読んできた。同じ世界に生きていて、この世界に生きているということを共有していて、共有している場面で本を読んでいるんだという気持ちがあった。それが壊れて、自分が考えている世界が虫食いが生じた感じになる。次第次第に自分の世界が壊れていっているところがある、自分が自分の力で築いていると思っていたこの世界に対する見方というものがいい加減で、そういう人たちが一緒に生きていてくれるから、自分にこの世界があるまとまりある、確固とした、確かさのあるものと感じられていたのではないか。そういうことを考えるようになったということが自分の死生観が変わってきたということだと思います。

 

大江文学、大江文体について

〈毎朝の散歩。歩いていると読む本がないから自分の進行している小説をやってみたり、文章の書き直しをやってみたりする。〉

「エラボレイト」。何度も作り直して念入りに仕上げていく、丹精する。最初の原稿はかなり自由に、僕の呼吸と小説の呼吸が大体同じであるような感じでかなり速いスピードで書く。もう一度、文体とはどういうものであるか、小説のイメージを考えて、少しずつ作り替えていく。外へ、自分の中にはいりながら外へ向かってだしていく。作品に形をつけていくのが作家の仕事と考えている。はじめのうちはイメージをはっきりしたいと思って直す。最後には最初のリズムと違ったリズム、違った呼吸のあるものに、作品として自然な文体にしていく。というのがこの10年ほど特にやっていること。

自分の文体は僕自身にはよくないとは感じられない。「奇妙な仕事」はノートに書いたものを移したもので直さなかった。ところが小説家になって、5年間くらい仕事しているうちに、これでいいのだろうか、自分が面白いと思うものを書いて載せてもらって。書いたものは全面的に検討してエラボレイトして作品化する、作り直すことが必要だと考えて、新しい文体を造るようになった。そうすると読みにくいし、ゴツゴツとしているし、イメージがひとつでいいところを、もう2つか3つイメージを書き込む。葡萄ひとふさのように。校正しているうちに息苦しくなってきて、読む人も息苦しくなるだろうと。正確にする、豊かにするため書き加えていくんですが、もう一度文章として読んで自然な呼吸の感覚がある、そういうすっとよめる。単純化したわけではない。この5冊の段階ではそういうふうにした。

声に出しては読まない。声に出さなくても声に出したと同じようなリズム、それで文章を検討することができる。音として読んだと同じような感じで文章をみていく。特にそのことを熱心に考えたのが「水死」。反省して。レイターワーク。積み上げ式の仕事ではなく、今度は削っていく、壊していく、含みこんだような書き直しというのを熱心にした。ものを記憶する習慣がある。3ページ分くらい夜直す。翌朝1時間くらい散歩する、昨日書いた文章を検討していく。夕方から書き直してみる。今のエラボレートの習慣。

安部公房はやることなすこと天才。武満徹も天才的な人。伊丹十三君も普通の人間じゃない、才能の塊。16-17からそうでした。そういう人と比べて自分は普通の人間なんだという気持ちが強くて、普通の人間として書いたものをそれ自体に特別な価値があるということは言えないと考えるようになった。自分が書いたものを意識的に検討すればいいんじゃないか、それが書き直しをはじめたひとつの理由。天才的な作家、いろんな作家の本を見本にして勉強していくっていうことを同時に始めた。本を読むことを仕事と同じくらい大切に思い始めた動機。40歳はじめから毎日外国語の20ページ読むことにした。原文で。日本語も。僕の本棚には外国の本がたくさんある。

エリオットの詩「荒地」を引用。訳と原文を併記。

文学で一番いいものは、天才的な人間が誰でも使う言葉を使って本当の文学作品を作ったと考えられるのは詩。フランス語でボードレールマラルメ、英語でオーデン、エリオットとか。外国語の詩を読んでも自分は本当はわかってないんじゃないかと思うようになった。本当に感動しているのだろうか。勉強しようとして英語の詩を読んでいるが、こういう翻訳を読むと本当に自分が感動するようなことが書かれている。日本人の優れた研究者、優れた文体の感覚を持った人が翻訳したものが本当にいいものだと。この英語の詩を読んでこういうふうに日本語で表現することはできない。ふたつを常に一緒に読んでみようと思った。2つの間の心の動き、言葉と言葉の闘いと協働みたいなものを考えるというのが、文学、詩を勉強する上での基本の方法。

小説を書くような人間はどんなにいい作品をみても自分が第三の流れを作っていくことができるといううぬぼれを持つものなんです。そういうことをやっているんです。

文語体も好きです。新しい言葉で書く、村上春樹さん、吉本ばななさんとかいろんな人たちが自分の生活の中で新しく作り出した文体で書くのはとてもいいこと。自分が生活の中でもっている言葉と、本で読んだ一昔前の日本語、江戸時代の散文を含めて、いろんな日本語を突き合わせて、違ったものが違った響きをもって、それがある音楽をつくるような文体というものを考えるのが僕が願っていること。

特に大正時代の作家、牧野信一梶井基次郎とか、彼らは外国語の文学をよく読んでる。牧野さんはギリシア語もよくできた。中島敦は漢語、中国語も読めるしスティーブンソン、ディケンズなんかもよく読んでる、英語もよくできる。外国語と日本語の響きあいのなかで自分の文章を作っていった人たち。それ以前は明治の新体詩。新しい日本語の散文をつくろうと思って、外国語の音の響きも翻訳にいかす、自分の日本語の文章のなかにいかす、外国語的な和音、メロディをとりいれたいという気持ちがあって、みんな外国語を勉強したと思う。森鷗外がそう、鷗外の翻訳。二葉亭四迷もロシア語をやってロシア語のリズムをいかす翻訳。外国のリズム、響きを文学にあまりとりいれなくなったのが昭和の文学だと思っている。

戦後文学の人たちは思想的に大きい重いものを書いた。文章がある種の軽さを失っていくのは仕方ないと考えた。椎名鱗三がそうだった。いい作家ですが。そういう伝統が続いている。僕などは外国語の響きを鳴り響かせながら新しい文体を作りたいと思ってきたのが僕の仕事で。ところが、そういうことを見事に達成して、外国語にそのまま訳したら外国人にとってもいい文学でありうるような日本語でも多くの読者を得るような文体を作りあげたのが村上春樹さんです。僕らは村上春樹さんのような大きい革命的な仕事はしていない。村上さんの本がたくさん読まれるのは当然だと思う。

批判もするが評価もする、若い作家の仕事を。村上さんは都市を書いている人。アメリカ文学でも、大きな都市ではなく、地方の都市で生きる人間を書く。中国人の憧れを表現する形で世界的な評価がある。

 

故郷

四国。自分が育った、自分の祖先たちが育った場所を、しっかり根付いたものを書きたい。その土地の持っている、非常に生き生きした深いもの。心の動き、感情の働きを表現するものとして場所をとらえて小説の中に表現したい。森、谷あい、川の流れ。

森を眺めて自分の祖先がここにやってきたんだなと考えたりするのが好きだった。それが僕の小説の場所だった。

僕のおばあさんがこう言っていた。この辺りに生まれた人はこの村で死ぬものだ、森の中に自分の樹木というものがあって、その木の下の方に魂が浅い地面のなかにいきていたのが谷間に降りてきて人間の赤ちゃんになる、死ぬと魂が森に上がっていって自分の木にいって、何年か何百年後かにまた生まれ変わるのを待つ。それがおばあさんの意見。これが僕が考えた僕の木なんです。

僕は都会の人間ではない、村の人間、谷間の人間だと思ってきた。小説の中で森というものに世界の大切なものが集中しているような場所を作って、そこにいる人間を通じて世界を変えてやろう。本当は四国の森ではなく世界の森。

フォークナーはヨクナパトーファ・カウンティーという場所、南部の町を考えて、戦争、不況の影響もある、夢を抱いてそこから出ていく人間、そこで悲劇を味わう人間もいる。大学4年生のときにフォークナーを全部読んだ。世界にありそうなものを全部書いてある。神、地獄、歴史。場所の実感が書けているからこそ、日本人の僕でも、世界を表現できるものがあるんだ、と。森の中に生きてきた祖先を一番大切に考えている人はいないと思った、僕がそこで自分の表現をしていこうと思った。

私という語り手によって書いて、語り手が自分の家庭を根拠地にして、障害をもつ子供と、友達の妹と結婚して、暮らして、自分の妹が地方に生きている。そういう場所にいる年をとった作家が自分の身辺に起こることとして小説を組み立てていくというのが僕の小説に基本。場所が限られるし、面白いとも感じられないことも知っているし、読者も限られることを知っている。そういう自分の限られた生活があってその背後に大きい森があって、森と自分と書くものとの間がパイプでつながれていて、パイプの中に自分の家庭もある、そういう人間として自分が生きているのだということを自分の文章で、できるだけ普遍的なイメージとして書いていく。外国語なんかも取り入れたり引用したりするという形で書くのが自分の文体としてしっくりくる。50年間そうしてきた。1万人なら1万人、3万人なら3万人の人に読まれて、外国でも毎週一度新しい翻訳の契約書が届く。2000人くらい外国にいる。広く読まれることはない。言葉という普遍的なもので書き、文学というやはり普遍的な形にすると広く伝わりうるものだと、狭いところで持ち続けて50年たった。「水死」という小説を終わってみると、そういうやり方は行き詰っているのだと小説の中で批判されているように思った。今の文体をつかって、新しい人物を書くことができたら、すっかり別の人たちに読んでもらえるかもしれない。新しい小説を書こうとしても、今まで積み重ねてきたものがそこの中に入り込んで来る。僕でも新しい小説を書こうと思っている。老人の奇怪な小説を書くかもしれない。カタストロフィーに至る小説を書くかもしれない。生涯最後に書く小説、一番最後が明るい小説になるんじゃないかという気持ちもある。

 

大江健三郎の自宅

原書はとっておく必要がある。読んだあとで参照するために。

渡辺一夫先生は最も美しい人でした。手紙とブリコラージュ。ブリコラージュというのは手仕事、自分のうちにある道具で造る工作、それが人間の心の働き、精神の働きにとって重要である。と先生は言っておられた。

伊丹十三君が自殺しました。NYTで知ったエドワード・サイードがFAX送ってくれた。「我々は強い人間で、感受性のある人間だから苦しい時でもやっていけるぜ」と書いてあるらしいんです。

人間は根本的にいいものだ、基本的に善良なものだ、どんな障害がある人も、彼が自然に変わっていく自然に少しでも成長していくということを、他の力が抑圧しなければ、妨害しなければ、彼には彼としての自分らしい表現があるということを考えるようになりました。40年以上、毎日ほぼ一緒に生きてきて、それを学びました。

苦しみがなくなるとは思わないです。だけども基本的には人間が生きていくというのは明るい方向へ生きていくという気持ちを常にもってきたと思うんです。その点が私が感じてること、未来に向かって考えることで、その明るさというものが、考えるという意思の行為としての明るさです、自分載せ勝では光と一緒にいるときずっと明るいものを与えられてきたということです。

僕は魂の専門家じゃないんです。魂はこういうものだと表現することもうまくいっているとは思わない。常に自分の心の中に自分一個の魂をはっきりつかまえていこう、少しでもいいものにしよう、明るいものにしよう気持ちをもっていて、それが僕のドゥーイング魂なんです。魂のことをするっていうことなんです。根拠は障害をもっている子供でも、光という人の心の中にある魂というふうに感じるものがいいものに、常になっていっている。ねじ曲がったりしない。それが僕の証拠なんです。魂のことをすれば魂というものはしっかりしたものになる。どんな時代でも、どんな世界でも。

根本的には人間について考える。人間とはどういうものか、人間らしさとはどういうことか、どんな悲劇的な状況でもこの人物が人間であり続けることはどういうことかということを、大体の小説は書いている。自分は日本語の文章でもって、本当のことだと表現したいことを表現する技術というものを努力して蓄えてきた、その方法だけを考えてきた人生だと思う。しっかり本当のことを言える技術、確信のようなもの、言葉ももっている。本当のことを書き続けて作家としての人生を終わろうと思っている。光のように言葉がはっきりない人間でも音楽を通じてそれを言っている。僕も本当のことを言う、前に向かって発言しようとする態度をもって、残りの人生を生きようと思っている。

 

九条の会

小田実井上ひさしらと結成。

いつも時代というものを考えるとき時代の精神というものを考える。時代と違った生き方をしている、時代を批判しながら生きていると感じる人間でも時代の精神の影響を受けているんじゃないかと思っている。子供だったけれども昭和前期の精神の影響も受けている、戦後の民主主義の時代の精神の影響も受けている。私の父がどのように死んだのかわからないけれども、国家主義的な、軍国主義的な思想をもった右翼的な思想をもっている若い軍人やそういう学問をしている学者たちとつきあいがあった。昭和前期の、恐ろしいと思いながら影響をうけていた。天皇が一番権力をもっていて、日本は世界で一番美しい国で立派な国で、世界を支配するようになる、そういう時代の精神に父親も影響を受けていたのではないか。しかも自分の中に実は、昭和の最初の精神というものが残っているところ、傷のようなものががあるんじゃないかわかるだろうと考えてね。

昭和の最初の精神には批判的でした。今も批判的ですが、ところがね、古いレコードのバッハの音楽なんです、カンタータの音楽、独唱カンタータなんですが、それをかけて、うちに来てお酒飲んだり遊んだりしている松山の部隊の青年将校みたいなものがいた。20代後半の。そういう人たちがドイツの歌だが日本的な言葉をつけて歌った。いい歌だなと思った。ずっとあとになってバッハの独唱カンタータ伊丹十三君のところで聴かせてもらって、すごく感動した。涙を流して。戦争の末期に軍国主義的な将校たちが考えていた、歌ったりお酒を飲んだりしていた。あのときの気持ちに子供ながら共感していたんだと発見せざるをえなかった。自分の中に、現在の民主主義時代の日本のなかにも昭和の精神というものは生きてところがあって、私たちの国が、民主主義、平和主義の、世界に通用する普遍的な文化を作るというふうな国民性や国の精神、時代精神と違ったものをもう一回採用するかもしれない。そういう国になるかもしれない。そういう恐れがあります。

時代精神というものを教えてくださったの方が渡辺一夫先生で、文学を教わったけども、この時代をどう考えていられるかということをよく話してくださった。それが僕の社会観、世界観をつくっている。先生は、この国が、戦争の時代、戦争中の日本の雰囲気というものがもう一度この国に戻ってくるという印象を自分はもっている、と常に言われる。戦後すぐに書かれた文章にもはっきり書いてある。同じことを考えていられたのが加藤周一さん。お医者さんでした。フランス文学の勉強もしていて、東大でも夜は空襲があった場合、火の用心をするための人々が交替で夜番する習慣があった。そこで渡辺先生がみんなと話をしながら徹夜する、そこに医学部を卒業した加藤周一さんも加わっていた。このような時代で軍国主義の日本になって、ヨーロッパの思想、アメリカの民主主義ということをまったく考えなくなっていることは異常なんだと、それに自分は反対なんだ、日本のインテリがこういうことを新聞に書いている、大学教授がラジオで話している、あれはすべて間違ってるんだ、国が滅びに向かっているんだと先生は常に言っていた。危ないから、先生はずっとフランス語で加藤さんたちと話しておられたようなんです。

加藤さんが戦争後になって、日本がどう進まなければならないかを書いた一番最初の短い論文がある。軍国主義的なもの、反民主主義的なものが始まればそれに抵抗することを言うのが知識人であって、そういう人を養成しなければならない。これからは知識人がどのように働いていくかというようなことを書いた文章なんです。日本の知識人とはこうものだ、こういうふうに生きていくものだと示すように生きられた。そして最後に「九条の会」ということも呼びかけられて、僕もその一人にいれていただいた。戦争が終わってもう60年だけれども、あらためてそういう知識人として社会に対して、世界の動きに対してそれは違うと言う声というものが必ずしも大きく響いていない、それが現代なのではないかというのが僕の不安なんです。それに対して僕なんかも反対するようなことをしたい。小説家が知識人であるかどうかはちょっと問題があるんですが、小説家として50年生きてきて、知識人として仕事をする、知識人として生きる、知識人として死ぬという方向にいたいと考えているんです。

 

「新しい人」

「新しい人」というのは英語の聖書で発見したんです。新しい人というのは、人間の歴史が始まって、キリスト教がおこる、そこでイエスという人が現われて、違った立場の人の若いということを考える、死んだ後に新しい平和の可能性を示したということがあったんだと。それを「新しい人」といったということを知った。それからあと2千年以上経ってます、特にイスラエル、それからパレスチナのことを考えると、そこで起こっていることは、どうしても和解できない、和解しあえない人たちがいるということです。僕が言いたいのは、若い人たち、特に中学生や高校生の人に講演したりそのための文章を書いたりもしたんですが、みんなが「新しい人」になってもらいたい。とにかく自分の仕事の一番の目的は、この世界に、この社会に、どうしても和解できない戦うほかないと考えている人に対して和解というものをもたらすというのが、新しい人間の考え方なんだと、「新しい人」の役割なんだと僕は書きたいと思ってきたんです。

和解をもたらすことができる状況にあるかどうかむずかしいことです。それに対して僕はひとつの答えをもっているんです。同い年の友人で、エドワードサイードという人がいて、彼はパレスチナの人たちの側に立って、イスラエルの人たちに訴えかける論文を書いて、彼はひとつのイスラエルという国家の中でパレスチナ人とイスラエル人との間が平和的に共同生活できる環境を作ろうというのが彼の政治的な主張なんです。その中で、彼が白血病になりました、6年苦しんで、本当に重くなって亡くなってしまった。亡くなる前に非常に悪い状態にもかかわらず、彼は楽観的だったというんですよ、何人もの友人が、奥さんもお嬢さんも僕にそう言われた。重い病気で病床にいるんだ、パレスチナのための言論活動もできないことは悲しいとお嬢さんの前で泣いたりもされたとお嬢さんに言われた。だがこういうイスラエルパレスチナの対立も、人間がやることなんだから、人間がやっていることなんだから、ついには解決するだろうと彼は言ったと。自分はこのような楽観主義、オプティミズムをもっているんだと、人間のやることだからある時が経って、経つうちに解決するだろうとそういう気持ちを持っている。自分が苦しいときに考えて、自分が意志の力として、自分がこういう意志をもってる、意志をもった人間の行動として、as an act of will、意志によってこういう行為をするんだと、こういう楽観主義をもっている。optimism as an act of willを持って自分は死んでいくんだと彼は言っていた。意志の行為としてのオプティミズムをもって、人間のやることなんだからこれは解決しなきゃいけないし解決できるんだと、それが若い人にすすめたいことで、そういう楽観主義を持とう、物事は解決するんだと、こういう苦難から人間はそれをやがて人間自身を開放するだろうというふうに考える意志の力として行為としてオプティミズムの人間、「新しい人」になってほしいというのが僕の考えです。

 

文学は純文学のみであると考えます。狭い意味で。文学ってものはね、本質的に本来純文学というべきものであって、純文学というのは「新しい人」を書くものです。今まで人間が知らなかったような人物を描くというのが新しい文学、文学に値するものの今までやってきたことなんです。例えば演劇です、ハムレットという人物をつくる、小説ではドン・キホーテという人物を作る、そういうことをしたのは全部文学です。純文学という言葉を使えば、私は文学はそういうもので、「新しい人」を作り出してみせるものなんだ、そのために文学者は働くんだと。「新しい人」をつくるために僕たちは文学をつくるんだし、僕たちの文学を読んで、古典を含めて、「新しい人」になろうとしてくれる方がいられれば、私は希望があると、その希望に文学も役割を果たすことができるというふうに考えているんです。

 

 

【出典・参考】

  1. NHK100年インタビュー 大江健三郎」2010年放送 2023年5月7日再放送

 

内田百閒「阿房列車」

内田百閒著、新潮文庫版『第一阿房列車』『第二阿房列車』『第三阿房列車』のまとめ。

登場人物一覧

ヒマラヤ山系君 =平山三郎国鉄の雑誌編集者

交趾君

見送亭夢袋氏 =中村武志国鉄職員

垂逸君

何樫君

甘木君 =役所で恩給係。漱石のファン

矢中懸念仏 =金矢忠志。盛岡で蒲鉾工場の支配人

状阡君 =城川二郎。大同生命社員。新潟支店長

誰何君

賓也君 =浜地常勝。満鉄社員。戦後は福岡へ。父は浜地八郎弁護士。頭山満と姻戚関係

内藤匡。熊本。帝大独文科同期

太宰施門。大阪。

升田国基。新橋の東洋軒で食事だけ済まして禁酒を試みた。

長野初

中島重

森田草平

岡崎真一郎。岡山の幼馴染

 

 

 

『第一阿房列車

特別阿房列車

用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事はないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。

乗るなら一等、もしくは三等。〈二等に乗っている人の顔附きは嫌いである〉。ヒマラヤ山系君が同行。旅の資金は人に借りた。切符もあらかじめ買うのではなく当日入手する。売り切れだったので駅長に直談判して入手。編集者の椰子君が見送り。

東京駅 12:30発

 ↓ 特別急行第三列車「はと」号。一等車に乗る。牽引はC62蒸気機関車

名古屋に着く前に食堂車で酒を飲む。座席でビールを飲む

 ↓

大阪駅 着。江戸堀の宿に泊まる。

 ↓ 12:30発。前日と同じ汽車、乗務員も同じ。二等車に乗る。

浜松駅 着。蒸気機関車電気機関車につけかえる。

 ↓ 山系君の30円、5円値引き、2円女中、27円支払いのなぞなぞ。

東京駅 着

 

区間阿房列車

津軽海峡は怖いので北海道へは行かない。D51の話。箱根、江ノ島、日光だけは避けたい。行ったこともない。スイス人女性にそう云ったら呆れられた話。丹那隧道が開通する前は必ず通った御殿場線に乗ろうと思う。ヒマラヤ山系君が同行。市ヶ谷駅で交趾君に遭遇。立ち話。

東京駅 夢袋さん(国鉄職員)が見送り。

 ↓ 東海道線、11:00発、329列車米原行き三等車。6分遅れで発車

横浜駅で焼飯の弁当を買う

 ↓

国府津駅 着。乗り継ぎの汽車(12:35発)に乗り遅れる。サンドウィッチを買う。〈大変まずかった〉

 ↓ 御殿場線、14:35発

山北駅 着。機関車のつけかえなし。

 ↓ 

御殿場駅 着。まだ雨が降っている。スウィッチバックする。

 ↓

沼津駅 16:40着。助役さんのすすめで興津に泊まることに。

 ↓ 17:16発、門司行111列車、三等車に乗る

興津駅 着。

「水口屋」宿泊。〈二二六事件当時から名前は知っている。西園寺公の坐漁荘が近いのでこの辺りは大変だったに違いない〉。

興津駅 発。興津から西の由比に行って、さらに西の静岡に向かい、静岡から東京へ

 ↓

由比駅 着。一泊。浜辺を歩く。石と岩の境目はなんだと云う。

駅長に大謀網の見物を勧められたが〈行けばそれだけ経験を豊富にする。阿房列車の旅先で、今更見分を広めたりしては、だれにどうと云う事もないけれど、阿房列車の標識に背く事になるので、まあ止めにして置こう〉。

由比駅 発

 ↓ 京都行127列車、二等車に乗る。昨日の興津を通る。

静岡駅 12:48着

 ↓ 15:32発、鹿児島発34列車一二三等急行、一等に乗る。食堂車で酒を飲む

東京駅 着

 

鹿児島阿房列車

6月晦日。夢袋さんが見送りに来て、手紙と包みをボイに渡す。包みの中はサントリのポケット罎と胡桃餅。旅中のウィスキイは飲まない方がいいと云ったが4日目には空っぽに。ケイト颱風が近付いている。

東京駅

 ↓ 21時発、37列車博多行各等急行「筑紫」号、一等コムパアトに乗る。食堂車なし

上郡を過ぎたあたりで目が覚める。西大寺駅を通過後に百閒川の鉄橋。

森谷金峯先生は小学校のときの先生。

岡山駅を過ぎる。

 ↓ 呉線の〈瀬戸内海の海波と島を見たい〉

尾道駅 着。見世物小屋で蜘蛛娘を見る。

 ↓ 39列車呉線経由広島行二三等急行「安芸」号。野上彌生子似の女性がいる。

広島駅 16:13着

 ↓ 宇品線のぼろぼろの汽車に乗る

上大河(かみおおこう)駅 着。宿泊。広島管理局の甘木君が晩酌に同席。

 ↓ 14:36発、博多行37列車。一等車

下関駅 着。15分停車し、蒸気機関車から電気機関車につけかえ。

 ↓ 海底隧道を通る。

博多駅 21:05過ぎに着。宿泊

 ↓ 10:55発、33列車「霧島」号、二三等編成。久留米、熊本、八代を通る。

鹿児島駅 着

元教え子の状阡君は大分えらくなった。その状阡君を笹塚駅に置いてけぼりにした話。状阡君の妹の主人が保険会社鹿児島支店長で、駅まで迎えに来てくれる。

城山の宿に泊まる。天皇も宿泊した宿。番頭は四代目小さんの生き写し。

翌日、宿に垂逸君何樫君来訪。役所の偉い人が食事にさそいたいという伝言だが、〈用事がないと云うのが私の用事である〉として断る。

〈宿屋の女中と云う者は、人が自分の思う順序に従わないと、気になるらしい〉

垂逸君と何樫君が自動車で市内を案内。島津公別邸の磯公園。西郷隆盛の私学校跡。城山の山頂で桜島を眺める。二泊目をする。

鹿児島駅 昼前発

 ↓ 肥薩線 三等。途中でルウプ式線路。

宿の女中が用意してくれた折を開けると握り飯だけが10個。球磨川に沿っていく。

 ↓

八代駅 着。

宿は巡幸の時の行在所となった旅館(松浜軒)。女中さんはもとじまさん、御当地さん、油紙女史。残った握り飯の後始末で騒動。食用蛙にうなされながら寝る。

八代駅 発

 ↓ 東京行急行34列車。二等に乗る

博多駅 連結された一等車に乗換

 ↓

東京駅 翌日夕方着

 

東北温泉阿房列車

先ず初めに盛岡へ行こうと思う

上野駅 秋雨。夢袋さん見送り。

 ↓ 東北本線、12:50発、急行105列車。

〈向かい合った前の席に、今、赤ん坊を喰ったと云う様な真赤な口をした若い女がいる〉

 ↓

福島駅 18:49着。近くの宿で一泊

 ↓ 14:13発、101列車 二三等急行で特別二等車・食堂車連結。特別二等に乗る

東北本線にも一等車がついていたのを、半年くらい前からよした〉〈(一等に乗るためには)お金があっても無くても、なければ工面する〉

 ↓

仙台駅 15:44着。201列車に乗換。特別二等車に座る。

 ↓

盛岡駅 元教え子の矢中懸念仏在住。2泊。用事があるわけではないと何度も自答

 ↓ 普通115列車。6時間

石川啄木の生地・渋民を通る。歌碑(やはらかに柳青める北上の 岸べ目に見ゆ泣けと如くに)

金田一という駅に停車。「きんた一」が正しい読み方かと落着する。

 ↓

浅虫駅 17:25着

 

奥羽本線阿房列車

浅虫駅 浅虫温泉で一泊。風呂好きだが温泉にはめったに入らない(今回3回目)

 ↓ 113列車。30分

青森駅

 ↓ 奥羽本線 512列車(大阪行)。

〈東京を遠ざかるに従い、車内で何か読んでいる人が多くなった様に思われた〉

 岩木山津軽富士)を臨む

 ↓

秋田駅 1泊。

管理局などから3人合流して宿で宴会。軍歌を皆で大声で歌い女中に叱られる。〈向うでそう思っている物は食ってやらないと思った〉が、夜はしょっつる鍋、切りたんぽを食べる。ハタハタは朝食(山系君のみ食べる)。

秋田駅

 ↓ 12:36発、412列車。2時間

横手駅 14:23着

蕎麦食べる。雨に色増すもみじかな、美人の泣く風情は一層いいと語る。

横手駅 発

 ↓ 横黒(おうこく)線。718列車。

〈沿線の紅葉は天下の絶景だと云う〉

大荒沢駅 終点まで行かず大荒沢駅で引き返す

 ↓ 横黒線。715列車。

横手駅 着。一泊。

小鯛を絶賛。犬養木堂の額の立派さにむずむずして〈金峯先生直伝の懸腕直筆で颯颯の運筆〉をもって一筆書く。

駅で蕎麦を食べた後、よく噛まずに飲み込むのが正しい、蛇もそうだと講釈を垂れる。

横手駅 発

 ↓ 412列車。4時間

山形駅 一泊。

 ↓ 仙山線。12:45発、320列車。

途中駅の山寺駅の最寄りの立石寺(りっしゃくじ)で詠んだ芭蕉の句(閑さや岩に沁み入る蝉の声)がここだと知る。降りず。日本で3番目に長い面白山隧道を通る。

 ↓

仙台駅 着。誰何君出迎え。松島へも同行

 ↓

松島 一泊。宿の楣間に伊藤博文の扁額。翌日、船で塩釜まで行き、白雪糕(はくせっこう)をお土産に買い、帰る。

 ↓

仙台駅 発

 ↓ 急行102列車特別二等車「青葉」号。誰何君見送り。7時間

上野駅 着

(以上、『第一阿房列車』)

 

『第二阿房列車

雪中新潟阿房列車

新潟には一度行ったことがある。大震災前の陸軍士官学校の教官時代、仙台への出張を命じられた。その帰途に、仙台から常磐線で平へ、平から磐越東線で郡山(福島)に出て、磐越西線を通り新潟へ。新潟から北越本線へ廻って、富山、金沢、敦賀米原、そして友人(中島重のこと。同志社大学教授)のいる京都へ行った。

今度新潟へ行って見ようか知らと思い立ったのは、勿論用事などある筈はなく、新潟に格別の興味もないし、その他何の他意あるわけではないが、あっちの方は雪が降って、積もっていると云うので、(略)それを一寸見て見たいと思う。/私は備前岡山の生れで、子供の時から余り雪に縁はなかった。

上野駅 2月20日過ぎ。出立の前日から東京でも雪が降り、当日は一面銀世界。新潟の雪の楽しみがふいになった。

 ↓ 12:30発、急行「越路」701列車、EF58電気機関車

「越路」は〈その出足の速い事、走れば揺れる揺れ方が律動的(リズミカル)で、線路の切れ目を刻む音も韻律に従って響いて来る様に思われた〉。

熊谷、高崎辺りの景色を眺めていたら、少し寒気がする様な気持になった。/ごつごつとしていて、隣り同志に列んだ山に構わず、自分勝手の形を押し通そうとしている。尖ったの、そいだ様なの、瘤があるの、峯が傾いたの、要するに景色と云う様なものではない。巨大な醜態が空の限りを取り巻いている。

〈日本一、長い〉清水トンネルを過ぎる。前後に急勾配に備えるため「越路」の編成は短い7両編成。トンネルの蝋燐寸(ろうまっち)の話、窓をアルコールで拭いて曇らせない話。

長岡駅電気機関車からC59蒸気機関車に付け替える

 ↓

新潟駅 着

保険会社(大同生命)の支店長を務める状阡君出迎え、宿に行く。記者が来て「新潟をどう思いますか。感想は」「汽車が著いて、自動車に乗せられて、ここへ来たばかりだから、ないね」。状阡君夫妻と夕食。泊。

翌日は外出せず。山系君、続いて状阡君と将棋を指す。2泊目の夜、管理局の3人、状阡君と夕食。泊。翌朝、2階の客がうるさいと怒っていたと女中。奥羽の秋田の宿でも女中に叱られた。「新潟の雪は赤いね」(百閒)「赤土の所為でしょう」(状阡君)。

新潟駅 発

 ↓ 13:20発、急行「越路」702列車

車窓から見る半晴の空の向うがすいている。空の境に連なる群峯をぬきんでて、聳え立った山の頂の雪に、遠い日がきらきらする。

 ↓

上野駅 着

 

雪解横手阿房列車

新潟行の4日後に出立。

阿房列車に魔がさしたわけではないが、雪が解けない内に行って見たいと思ったので、気がせく。

そうすると(昼ご飯を抜くと)腹がへる。肉感の中で一番すがすがしい快感は空腹感である。その空腹感を味わいながら、晩のお膳を待つ。一日に一ぺん位お膳に向っても、天を恐れざる所業ではないだろう。そこで成る可く御馳走が食べたい。それを楽しみに夕方の時を過ごす。冬と夏では多少違うが、大体私の夕食は九時頃である。

上野駅

 ↓ 21:30発、401列車、二三等急行「鳥海」。二等寝台。

食堂車はないため、喫煙所で弁当・酒(魔法瓶)。弁当は〈鶉の卵のゆで玉子、たこの子、独活とさやえん豆のマヨネーズあえ、雞団子、玉子焼、平目のつけ焼きと同じく煮〆等〉。山系君の寝言の話。

新庄駅6時半、院内駅7時半に停車

 ↓

横手駅 8:06着。今回は蕎麦を食べない。新潟より雪が多い。

1年半前と同じ宿へ。同じ部屋。犬養木堂の扁額もそのまま。〈座敷全体が何となく草臥れている。(略)座敷も一年半たてば、それだけ歳を取っているのだろう〉。横手の「かまくら」は昨日終わったところだった。

宿に「梵天」がくる。昼寝の間、山系君は鳥海山を見にでかけたらしい。〈宿屋に来て、思った事を口に出すと、忽ち機先を制せられて、早く顔を洗わなければならない羽目になる〉。だから、お湯の用意を女中に云うなと山系君に。

料理屋で夕食。「岡本新内」、唄と三味線と踊。「新内」を語った婦人を〈初めの内はお師匠さんと呼んでいたが、その内に師匠と呼び捨て、次に婆と云い、仕舞には糞婆になった〉。宿へは初めての橇(箱橇)に乗る。百閒はぼらの刺身がうまかったらしい。

翌日、夕食に駅長さんらが同席。

翌日、雪を見るため、この前と同じ横里線に乗り横手駅から大荒沢駅まで往復する(三等車)。帰りは吹雪。駅へ向かう途中で判明したが、運転手の話を聞くと山系君が見たのは鳥海山ではなかったらしい。

横手駅

 ↓ 16:20発、「鳥海」402列車、C629機関車。古河あたりで電気機関車に付け替え。

宿で用意してもらった折詰と酒を帰りは寝台で。山系君に“in bed”は「ベッドで」ではなく「寝ているときに」であると説教する。

 ↓

〈朝の富士山は、白くて美しいばかりでなく、飛んでもなく大きな物だと云う事を思った。〉

 ↓

上野駅 6:30着

 

春光山陽特別阿房列車

招待を受け、新特別急行の処女運転に乗る。〈こっちの考えていない事を、人に云われると、ひどく気を遣う〉。乗れるのは有り難いがマスコミなど居合わせる人々の対応が煩わしい。一日ずらそうかと考えたが〈一番乗りと云う晴れがましい記憶は成立しない〉。だが、新特別急行には展望車はついていないという。

  • 一二等特別急行「富士」(東京⇔下ノ関)。展望車付。のち三等も連結
  • 三等特別急行「桜」(東京⇔下ノ関)。のち二等も連結

戦前にあったこの2つの特別急行は戦中期に廃止された。現在の特別急行について。

 

東京駅 発

 ↓ 20:30発、13列車、一二三等急行「銀河」。一等のコムパアト寝台にのる。

編成は三等6両、二等6両、一等2両。食堂車なし。機関車はEF58か? 昔、宮城撿挍が乗り心地のいい「銀河」を褒めちぎった。来なくてもいいのに夢袋さんが見送り。三脚を持参してそれをテーブルがわりに弁当と酒。

 ↓

京都駅 6:4×着。タクシーで御所、平安神宮をまわり、駅に戻る。

 ↓ 8:30発、特別急行5列車「かもめ」、特別二等車に乗る。牽引はC59

大阪駅 着。甘木君が乗ってくる。取材のお願い。

 ↓

三ノ宮駅 着。下りは神戸駅に停まらず、上りは停まる。

 ↓

姫路駅 着

 ↓ 吉井川の鉄橋は曲がっている。日本でここだけ、という。

岡山駅 着。幼馴染の真さん、保さんがホームにいる。お土産をくれる。

 ↓ 11:47発。160キロメートルを2時間半で

広島駅 着。機関車の付け替え。窓外が春景色。「かもめ」より「からす」がいいのではとのたまう。〈山の裾をうねくね廻り、山の鴉をおどかして走るのだから〉

 ↓ 

小郡駅で給水停車。下ノ関駅、門司駅小倉駅にも停車。左書きか右書きかの問答。「きてき」はどちらでも同じだったと山系君。食堂車には誘われて行ったが食べず飲まず。

 ↓

博多駅 着。

昔の教え子・賓也(ひんや)君が出迎え。洋風ホテルに宿泊。賓也君と夕食。〈タブル・ドート(ターブル・ドート。定食のこと)は面倒臭い。又コースがお酒に合わない。好みの註文(アラカルト)をしようと思う〉。

翌朝、部屋でアイスクリームの朝食。〈旅行に出れば私はアイスクリームばかり食べている〉。雨。

博多駅 発

 ↓ 10:59発、下り35列車「きりしま」に乗車。

鳥栖駅久留米駅大牟田駅熊本駅に停車。3時間半

 ↓

八代駅 着。雨。〈山系君は全く天の成せる雨男である〉

宿の女中が迎えに来る。前の御当地さんと新人さんの2人。前回も泊まった宿へ(松浜軒)。2階の行宮、御座所としてかつて使われた部屋に。〈こちらの障子を開けると、しんとした静けさの中に、杏子の花が咲いている。花盛りの枝が、池の縁から乗り出して、音のしない雨の中に的皪(てきれき)と光った〉。夕食を食べる。寝るのは1階の座敷。

翌朝は雨上がりの快晴。

八代駅 発

 ↓ 15:30発「きりしま」

博多駅 着。連結された一等コムパアトへ移る。食堂車へ

 ↓

〈一等車に乗っている人はみんなえらいのだろう。それを自分で知っている様子である。しかし自分が知っただけではいけない。人にもそう思わせなければならない。人に自分がえらいと云う事を示すのに、にやにや笑っていながらそう思わせるのは中中六ずかしいだろう。手近な方法は怒った顔をするに限る。(略)所所の停車駅で乗り込んで来る一等客は、申し合わせたように腹が立って仕様がない様な顔をしている〉

 ↓

静岡駅 着。山系君の後輩・蝙蝠傘君が見送り。狸の独楽をやる。

 ↓

東京駅 着

 

雷九州阿房列車

6月22日、雨。鞄は(いつものように)交趾君から借りた。蝙蝠傘君にあげるための蝙蝠傘を持つ。東京に来た時に盗まれ、東京は油断のならない、恐ろしい所だと述懐していた。小学生の時、作文の時間に記事文の書き方を教わった。

〈成り立ち。種類。効用。この順で書かなければならない。

傘は紙と竹にて成り、日傘と雨傘とあり。日傘は日の照る時に用い、雨傘は雨の降る時に使う〉

戦前、郵便鎌倉丸で辰野隆博士と同船したときの話。えらい先生になると蝙蝠傘を忘れるものです、と奥さん。タクシーで東京駅へ。キッド皮の深護謨靴を磨いてもらう。

東京駅 発。早く駅に着きすぎたが〈汽車に乗り遅れる方の側に、利口な人が多い〉

 ↓ 12:35発、急行「きりしま」。機関車、荷物車、一等車の順。夢袋さん見送り。3人でアイスクリームを食べる。〈落ちついて考えてみると、全く何も用事がない。/なんにもする事がないと云う事を考える。そうしてその事の味を味わう〉

食堂車へ。酒は飲まない。「よく空いている」の「よく」に拘る。昔、東洋軒の料理はからく、精養軒は薄味だと人から聞いた。大震災前の東洋軒で、ボーイが落とした林檎をそのまま皿に戻した話。酒を飲まずに食事をしたから色々見えたり、考えたり。

静岡駅 着。蝙蝠傘君に蝙蝠傘を渡す

 ↓ 15:40発。

日本坂トンネルを過ぎる。浜松駅で電気機関車から蒸気機関車に付け替え。夕刻から食堂車へ。ようやく酒を飲む。京都駅を過ぎたあたりで寝る。目覚めると山系君は食堂車に行っていたようだ。雷鳴。「昭和28年西日本水害」*1と云われる災害の始まりである。

 ↓

博多駅 6月23日、10:45着。

雨。豪雨の予報。一等車、二等寝台車、特別二等車の切り離し。二等車に移る。元教え子の賓也君が出迎え。相談事があるため久留米まで同乗し食堂車へ。ホームの拡声器の音量に苦言を呈す。

博多駅 発

 ↓ 10:59発。食堂車で相談事。熊本駅のホームでは同学の旧友と立ち話。

八代駅 14:21着。雨。三度目の八代である。いつもの宿(松浜軒)の女中さんが出迎え。泊

6月24日、雨が上がる。蛇は鱗で泳ぐと嘯く。睡蓮の咲く池にお歯黒蜻蛉が飛ぶ。

八代駅 発

 ↓ 14:05発、普通列車126

熊本駅 15:00着。管理局の局長が夕刻までの予定はと尋ねると〈私が警戒して、予定は何もないけれど、何も予定がない様にしてあるのが私の予定ですと答えた〉。

昨日の旧友(熊本大学の教授)と宿へ。管理局の垂逸君も同席して夕食。雷がおさまらず。

6月25日、朝から大雨と雷。管理局の車で熊本城址へ。車中から見るだけにする。〈駅の前の広場が池になっている〉。

熊本駅 発

 ↓ 14:10発、豊肥線721列車。旧友らが見送り。

各駅停車、148キロメートルの間に26の駅がある。

宮地~浜野間で大小無数の滝。崖には青草。絶景なり。〈無数の濁水の瀧は多分、雨の為であって、ふだんは水の落ちていないのもあるだろう〉。豊肥線は後日、2か所で不通となったようである。

 ↓

豊後竹田駅 着。

竹田町は滝廉太郎の古里で、同町にある岡城址に託して「荒城の月」を作曲した。停車中のホームに曲が流れる。

 ↓

大分駅 19:16着。

駅長から初めていらした大分の感想を求められる。〈いらした計りで感想なぞある筈がないが、感想がないと云う事を云うのも、感想の一つとして扱ってくれる様で(後略)〉。

高崎山の猿の話。〈山本有三さんが見に行った時は、猿に大変人望があったと見えて、総数二百匹以上も集まって出迎えたそうである〉。岡山の奈良茶の猿を思い出す。車で別府へ。何樫君が同乗。

別府に着き、車は坂を上って大きな宿屋へ。記者が来る。

何樫君と3人で夕膳。落雷で一時停電する。1階の座敷はこの間の名人戦で大山升田の対局が行われたという。

6月27日、雷の音で目が覚める。大雨。日豊線が不通。一日宿にいる。夕方、何樫君が来る。彼によれば、日豊線豊肥線久大線鹿児島本線も不通とのこと。

6月28日、雨。2泊3日をここで過ごし、別府駅へ。日豊線は開通し、「きりしま」は門司で折り返し運転することになったため門司へ向かう。

別府駅 発

 ↓ 12:30発、日豊本線、準急508列車。汽車弁を食べる。

途中、中津駅から分岐する耶馬渓線にも曲がる鉄橋があるという。

小倉駅 着、いったん降りる。山系君の先輩・奇石氏が出迎え。甘木君も。

 ↓

門司駅 着。駅で炊き出しが行われている。

 ↓ 20:48発「きりしま」乗車。早速食堂車へ。

女の子の給仕が銀盆の西洋枇杷をひとつ落としたが〈手早くその枇杷を拾い上げ、自分のエプロンのポケットに入れて澄まして歩き出した。/日本食堂の訓練のいいのに感心した。〉

 ↓

東京駅 着。関門トンネルには水が這入って通行できなくなったそうである。

 

(以上、『第二阿房列車』)

 

『第三阿房列車

長崎の鴉 長崎阿房列車

長崎へ行こうと思う。/行っても長崎に用事はないが、用事の有る無しに拘らず、どこかへ行くと云う事は、用事に似ている。だから気ぜわしない。

秋晴れの日曜日。見送亭夢袋さんが「どうもどうも」。「雲仙」は一等車がないので仕方がない。長崎までは28時間。

東京駅

 ↓ 長崎行き二三等急行、37列車「雲仙」。特別車付。4人用コムパアト二等寝台。

郷川を過ぎたあたりで夕立。〈富士の巻狩、曾我兄弟仇討のでろれん祭文の中に、幾日も降り続く雨空の一点が、指で突いた程青く霽れたと思うと、見る見るその青空がひろがり、忽ちにして一天からりと晴れ渡ったと云う。それにも似た通力をヒマラヤ山系君はそなえている〉

丹那トンネルを超えるとふたたび秋晴れ。

〈汽車が次第に濃い夕闇の中へ走り込んで行く時に聞く汽笛の響きは、鼻に抜けたかさ掻きの様な電気機関車よりも、蒸気機関車の複音汽笛が旅情にふさわしい。〉

〈食堂車に長居をすると云うのは、いいお行儀ではない。〉

食堂車へ。まだ早い時間なので軽く茶を飲む。この頃の定食はコースではなく大きなお皿に盛りつけられたもの。あぶらが濃く、酒の肴には適しない。昔、神戸行急行の食堂車は精養軒の請負で、夏の定食時間には小さな花水をひとつずつ食卓にサアヴィスした。食事中の喫煙は厳禁。いつの間にかC62蒸気機関車の音がする(名古屋駅で交換)。

5時前に再び食堂車へ。途中で2人同席。漱石ファンの甘木君(役所で恩給係)と何樫君で、百閒とは初対面?(すでに登場している)。大阪駅の手前でコムパアトに戻り寝る。食堂には6時間居座ったようである。

 ↓

厚狭駅 着。下関の手前。9:48発までの1分間で主治医の息子へテニスラケットを渡す

 ↓

鳥栖から鹿児島本線から長崎本線へ入る

肥前山口佐世保線

早岐(はいき)で大村線

諫早長崎本線に戻る

 ↓

長崎駅 16:45着。

車で宿へ。鉄道関係の客2名と夕膳。20畳の座敷。寝る。

部屋に入る朝日で目覚める。又寝する。

散歩で大浦天主堂へ。小さな女の子が跪き胸に十字を切っている。市電で長崎駅へ。靴磨きしてもらう。宿へ。夕方外出して「旗亭」でお酒。芸妓が歌う。箸袋の「葉風」は「羽風」だろうと指摘したら芸妓が不思議がる。〈彼女は私共が校正恐る可き暮らしをしている事を知らない。〉。宿へ戻って寝る。

翌朝(旧暦9月14日)は早く起き、駅へ

長崎駅

 ↓

鳥栖駅 着。鹿児島本線下り35列車「きりしま」に乗換。

 ↓

八代駅 14:21着

御当地さん出迎え。〈山系君の顔を見て気の毒そうに、昨日の夕方から雨が降り続きましたのに、つい先程上がりまして、と云った。〉

宿「松浜軒」へ。4回目の投宿である。松浜軒は260余年前の元禄元年、八代城第三代城主松井直之が創建。八代市は空襲を受けなかった。とんでもなく大きな長い脇息がある。

翌朝、秋晴れ。城址へ。

八代駅 午後発

 ↓

博多駅 着。一等寝台コムパアトに移動。今夜は旧暦9月の満月。

 ↓

東京駅 着

一等車ばかりに乗って、20畳の座敷に泊まって、その旅費はどうしているのだと読者は思うかもしれない。そういう人は『ファウスト』第二部でメフィストフェレスがいっている事をお聴き取りください

 

 メフィストフェレス

あなた方がお入り用のお金は作って進ぜましょう、いやお入り用以上のものを。

全く造作もない事で御座いますが、さてその造作もない事が六ずかしいので、

お金は現にもうそこにある、そのそこにあるお金を手に入れるのが

術というもので御座います。さてどなたにそれが出来ますかな。

 

房総鼻眼鏡 房総阿房列車

今度は向きを変えて、手近かの房総へ出掛けようと思う。……私は、千葉へすら行った事がない。

1~2日目にひとつの楕円、3~4日目に千葉から出て千葉に帰るもう一つの楕円。楕円が2つ出来て、〈千葉を鼻柱とした鼻眼鏡の様な旅行である〉。465キロメートル。一昨年、東京駅の名誉駅長となった話。

(1日目)

旧暦11月15日、半晴。

両国駅 総武線両国駅が起点。見送亭夢袋氏見送り。「どうもどうも」

 ↓ 12:44発、総武本線銚子行319列車三等車

半車の二等車があるのでそれに乗る。銚子まで117キロメートル、2時間45分

 ↓

千葉駅 着

 ↓ 

山系君は両国駅出発以来、キャラメル、稲荷鮨、サンドウィッチを食べた。風邪だからだそう。犬吠岬は音痴、銚子の外れにあるから、と山系君

 ↓

銚子駅 着

車で犬吠岬へ。海かと思えば利根川。宿へ向かう。黒犬に吠えられる。早めの夕膳。夜から雨。窓から灯台の明かりが見える。夜の浪を越えた先に見える明かりは遠い昔の悲哀に通う様な気がする。雨はすぐに止んだ。

(2日目)

翌朝、天気はいいが沖は荒れている。牛乳を飲み、パン(麺麭)をコンデンスミルクと食べる。宿の車で岬に行き、番頭さんに君ヶ浜について教わる。潮流が速く、三富朽葉と今井白楊の2人が大正6年、29歳の夏、水死。

銚子駅 

 ↓ 14:51発、成田線426列車、三等車

成田で鈴木三重吉(成田中学の英語教師)の入院の話。漱石小宮豊隆

 ↓

千葉駅 夜に着。当地の管理局の甘木君の案内で町中の宿へ。

(3日目)

翌朝、くもりから小雨、のち本降り

千葉駅

 ↓ 11:03発、房総西線123列車、二三等編成。半車の二等車へ

寝ようと思ったが寝られない。前の席に座る山系君は〈こちらに劣らない不景気な顔をして、時時魚が死んだ様な目をしている〉。

午後遅くに晴れる。木更津、館山を通る。南三原から和田浦の間で太平洋に出た。和田浦駅で山系君の知人より花束をもらう。

安房鴨川駅 14:22着。立派な宿で泊。陛下の行宮ともなったという。〈浪は何をしているのだろうと思う〉。早めの夕膳。沖の左手のほうにいさり火が連なっている。女中があれは小湊(鴨川の東にある)の燈火と云った。

(4日目)

安房鴨川駅

 ↓ 14:29発、234列車。123列車と実は同じで、列車番号を変えただけ

千葉駅 夜遅くに着。千葉駅周辺はよく知らないからタクシーで稲毛へ向かいそこで泊まることにする

宿は島崎藤村や徳川秋声、上司小剣らが小説を書いた旅館だった。甘木君と3人で夕食。宿の作法が酷いため「貴君、逃げ出そうか」。宿を出て稲毛駅へ。。泊まらず帰宅する

稲毛駅

 ↓

両国駅?東京駅?

 

隧道の白百合 四国阿房列車

(四国を)ぐるり一廻りするには、私の行き方ではどうしても十一二日掛かる。……誰も待っているわけではないから、無理をするのはよして、四国を半分だけ廻って来る事に思い直した。

4月某日

東京駅

 ↓ 12:30発、第3列車特別急行「はと」、一等車。垂逸君も同乗

名古屋駅 17:30着

 ↓ 〈私の一番好きな「はと」に揺られて申し分のない半日だったが〉、3人連れの南京さんの1人が大きな顔で頻りに痙攣する

大阪駅 20:30着

垂逸君に呼ばれ、御馳走を食べる。あまり食べられず。調子が悪かったのかも

ホテル泊。垂逸さんと秘書は帰る。

翌日午後、風邪を自覚。ホテルで一日過ごす。夜は親類の親子を呼んで食堂で夕食。山系君のいるグリルに移ったが酒が飲めない

3日目朝の未明、喘息になりそうになる。風邪は悪化。天王寺動物園は諦める

大阪港

 ↓ 17:00発、須磨丸(関西汽船。千トン超)

神戸港 寄港。波が高い

 ↓ 紀淡海峡を通り、室戸岬を廻る。船はひどい揺れ

高知港 8:00着岸。タクシーで宿へ

午後は何樫君の案内で桂浜へ。床屋に寄る。3人で夕食。何も飲食できず

翌朝、何樫君の迎えの車で駅へ

高知駅 徳島の予定を高松に変更する

 ↓ 10:00発、106列車二三等準急行「南風」号

高松駅 14:00着。管理局の車で鳴門へ。20里、3時間以上かかって宿へ。38.4度の熱。夕食も食べられず

翌朝(今日は旧暦弥生の14日)、鳴門の渦潮を見に行く。宿で休息。夕食は食べられず。暇つぶしに山系君と将棋を指す。夕方前、車で小松島港徳島市の南)へ。途中、吉野川を渡り、徳島市を通り抜ける。

小松島港

 ↓ 23:00発、太平丸(関西汽船。千トン弱)。今日は揺れない。熱は38.8度

大阪港 6:00着、天保山桟橋着岸

タクシーでまず梅田の鉄道病院へ。宿直の医師は不在。次に天王寺の鉄道病院へ。熱は36.4度。〈何だか恥ずかしくなって、きまりが悪くて、私を取り巻く様に起っている二三人の看護婦達に合わす顔もない〉。大阪駅へ。構内の喫茶店でアイスクリームを食べる

大阪駅

 ↓ 9:00発、特別急行「つばめ」。展望車へ

1年前の処女列車・特別急行「かもめ」とすれ違う

「列車監視」の話。〈何かお呪禁をしている様に見える〉

京都駅 着。1分で発車

大津駅通過。甘木君は今大津駅の駅長。駅で甘木君、通過を見守る

トンネルに入ると展望室の花瓶の白百合が光ったように見えた

沼津駅 着。「きりしま」が待っている。蝙蝠傘君が静岡からわざわざ見送りに

 ↓ この間、2時間

東京駅 着

見送亭夢袋氏が出迎え。帰宅し主治医へ。熱は38.4度。帰宅して9日間寝込んだ。

 

菅田庵の狐 松江阿房列車

旧暦10月、神無月

東京駅 晴、夢袋君見送り

 ↓ 12:30発、第3列車特別急行「はと」、一等車

1~2年前の八代行のときの帰り、博多の「きりしま」寝台車に順ノ宮様と夫・池田さんが同乗。そのときの老ボイと同じ

名古屋駅 17:30着、電気機関車から蒸気機関車へ切り替え

 ↓

京都駅 着。垂逸さん甘木さん出迎え。漱石「京に着ける夕」

 ↓

大津駅 着。宿へ。4人で夕食・酒

いろいろ問答して夜中3時にお開き。

翌朝、午に起きる。比叡山は2度行ったことがある。タクシーで石山寺へ向かう途中、皇后の乗る宮廷列車の通過に遭遇。石山寺瀬田の唐橋へ。三井寺を外から見る。泊

大津駅

 ↓ 8:29発、23列車急行「せと」

京都を過ぎたあたりで楠公と子の別れの桜井ノ駅を探すが見つからず

 ↓

大阪駅 9:30着。切り離され「せと」は岡山・宇野へ。乗る車両は山陰急行701列車「いずも」となる

 ↓ 9:50発。東海道本線から福知山線

福知山駅 着。ここから山陰本線

 ↓

香住駅 14:15着

 ↓

鎧駅

 ↓

余部鉄橋を通過

 ↓ 大山が見える

松江駅 17:39着。車で宿へ

森田草平の話。夕膳で芸妓、三味線。宍道湖のもろげ(えび)、鱸(奉書焼)、八百万の神の話

宮脇俊三『終着駅へ行ってきます』に境港、『ローカルバス』に松江、沖泊、佐太神社の話がある)

翌朝、宍道湖を眺める。車で松江城ラフカディオ・ハーンの旧趾、菅田庵、天神埋立を廻り、宿へ。記者たち10人に会って話をする。夕膳。1人闖入し勝手に食べ飲みしゃべる。神様だという。女中が来ると逃げ、あれは「菅田庵の山の狐」だという。

翌朝、出発

松江駅

 ↓ 11:40発、702列車急行「いずも」。余部鉄橋を通る。7時間半の旅。

大阪駅 着

タクシーでホテルへ。グリルで夕食。旅館に泊まることの愚痴、女中のおせっかいについて。ホテルの〈知らん顔が、旅先では一番有難い〉

翌日、山系君は上方鰻を友人と食べる。そのあと天王寺の動物園へ

翌日

大阪駅

 ↓ 12:30発、第4列車「はと」

東京駅

 

時雨の清見潟 興津阿房列車

今日は行く先に人が待っている

東京駅

 ↓ 13:00発、37列車急行「雲仙」。長崎行だが所々停車するので便利。目的地は興津。清水駅で降り、引き返す。〈全く愛想のいい急行〉

清水駅 着。蝙蝠傘君がホームに。課長。車で興津に行くことに。途中で三保ノ松原に。それから興津の水口屋へ。部長出迎え。皆で夕膳

翌日、雨。伊藤公の話

興津駅 13:30発の129列車が来ない。暴風雨で列車がとまる。下り129列車ではなく、静岡駅で乗車予定の36列車「きりしま」が予定にない興津駅に停まる。〈伊藤公がここにいるよ〉

 ↓

由比駅 着。2時間~2時間半の停車。食堂車へ

 ↓

東京駅

 

 

 

 

 

 

【出典・参考】

  1. 内田百閒『第一阿房列車新潮文庫
  2. 同『第二阿房列車新潮文庫
  3. 同『第三阿房列車新潮文庫
  4. 山本一成『百間、まだ死なざるや 内田百間伝』中央公論社
  5. 昭和28年西日本水害 - Wikipedia

*1:昭和28年西日本水害は、昭和28年6月25日から6月29日にかけて九州地方北部(福岡県・佐賀県熊本県大分県)を中心に発生した、梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害。阿蘇山英彦山を中心に総降水量が1,000ミリを超える記録的な豪雨により、九州最大の河川である筑後川をはじめ白川など、九州北部を流れる河川がほぼすべて氾濫、流域に戦後最悪となる水害を引き起こし、死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という大災害となった。

第1回 悲しむ人は幸いである ~「新約聖書 福音書」

講師:若松英輔

概要

エスの生涯を伝えるのが「福音書」。

「福音」とは「喜びの知らせ」のこと。救世主イエスが生まれてくださったことの喜び。

4つの福音書、「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」。それぞれで違うことが書いて場合もある。

エスの生涯は「誕生」「受洗」「宣教」「奇跡」「受難」「復活」に分けられる。

 

誕生

 神の使いが羊飼いたちの前に現われ、「大きな喜びの訪れをあなたがたに告げる。ダビデの町に、救い主が生まれた。この方こそ救世主。飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう」

 ヘロデ王は、イスラエルの民の統治者がベツレヘムに現われるという旧約聖書の予言が成就することを恐れ、イエスの命を狙う。ヨセフのもとに使いがあらわれ、一家は難を逃れる。ヘロデ王の死後、ナザレに居を移し、ここで育つ。

 「もうひとつの世界の王」をヘロデ王は恐れた。この世界は多くを持っているものが力を持ち、優れたものが上に行く。イエスが教えてくれる世界は「等しさの世界」。等しいというものは王には困る。民衆の上に立つゆえに。イエスの誕生という福音は民衆に伝えられた。ヘロデ王は2歳以下の子供をすべて殺すよう命じた。まっすぐ世界をみる子供を恐れた。幼子の心というものがどれほど重要かが説かれている。

受洗

 洗礼者ヨハネからイエスは洗礼を受ける。ヨハネユダヤ教だが、独自の集団をもっている。私は「水」で洗礼をあたえるが、ある方が「精霊」と「火」であなたがたに洗礼をお授けになる。「精霊」(神のはたらき)、目に見えない。「風」も同じ。あるはたらきがあなたがたを重要な道に導いてくれる。「火」は試練。

 イエスは神、神である存在が人間から大事なものを受け取った、イエスは弱い人間に寄り添う。

宣教

 ガリラヤの全土であらゆる病の人を癒した。その軌跡は評判を呼び、シリアからも人がやってきた。

「山上の説教」

自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人は幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人は幸いである。その人たちは神をみる。平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害されている人は幸いである。天の国はその人たちのものである。(「マタイによる福音書」5.3-10)

 貧しさとは、心のありようの不完全さのこと。我々は自分だけでは生きていけない。それを知る人間は幸いだ。みんながそうなんだと見えてくる。おのずと手を携えていくことになる。天の国はひとりでは行けない。天の門は開かない。転んでいる人と共に行けば天の門は開く。

 あなたが何かを愛したことはあなたが生きた悲しみがそれを証明している。

 みんな弱い、強がっていても弱いんだ、というのがイエスのメッセージ。

 神の前にみんな平等。自分だけが、というとき本当には満たされない、等しさに生きるものは満たされる。イエスの弟子に限らない、普通の人にもあてはまる。

「衣に触れる人を探す」

 月経の出血がとまらず悩む女性。12年も苦しみ、イエスを探し出す。

群衆に交じり、後ろのほうからイエスの衣に触れた。イエスの衣にさえ触れることができれば、救われるに違いないと思っていたからである。すると、立ちどころに血の源が乾いて、病気が治ったことを体に感じた。イエスもまたすぐに、ご自分の中から力の出ていったことに気づいて、群衆のほうを振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と仰せになった(「マルコによる福音書」5.27-30)

 これほど人が群がったなかで、イエスは触れた人を探そうとあたりを見まわす。

彼女は自分に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスのもとにひれ伏し、すべてをありのままに申しあげた。そこでイエスは仰せになった、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうこの病気に悩むことはない」(「マルコによる福音書」5.33-34)

 私たちの中には自分を癒すだけの力は備わっているのだということをイエスは教えた。

 イエスは苦しむ人の立場に立てる人。どんな人でもイエスの方から探してくれるというメッセージ。

マタイ

 収税所にいる徴税人マタイを弟子にした。徴税人は忌み嫌われる存在だった。イエスは徴税人や罪人と食事をともにした。ファリサイ派の人々が不思議に思い、尋ねた。イエスは答えた。

「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である。『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐れみである』ということが何を意味するか、学んできなさい。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 罪人とは的を外して生きている人々の意味。自分が良ければそれでいい、世の中でおこなわれていることはどうでもいい、そう思う人も罪人。私たちの罪を拒絶するのではなく共に生きるためにイエスは来た。

 イエスの考えの中に「裁き」がないというのが重要。

 我々の存在は誤りのゆえに飛躍するのではないか。聖書の中にはそういう人物が幾人もでてくる。虐げられ、冷たい目で見られた人たちがイエスのそばで深い経験をしていくというドラマがこれからでてくる。イエスはそういった人たちと寄り添っていく。

 

【出典】

・「100分de名著 ”新約聖書 福音書”(1)」NHK Eテレ 2023.4.3.放送

 

 

宮脇俊三のこと

 

交友関係

〈私は編集者時代に高浜虚子柳田國男室生犀星志賀直哉谷崎潤一郎川端康成小林秀雄三島由紀夫といった人たちに会っている。生前のハチ公も知っている。それが心の財産になっている。〉(「夜汽車よ!ふたたび」『終着駅』)

北杜夫

広津和郎

 

親族

宮脇長吉(1880-1953)

宮脇の父。陸軍士官学校卒。予備役編入後、1928年の初の普通選挙となった衆議院議員総選挙に立候補し、当選。立憲政友会に所属。

自由主義者であり、戦前は軍の勢力拡大・政治介入には反対の立場をとった。1940年に斎藤隆夫議員が反軍演説で除名された際にも、同じ政友会正統派に所属していた牧野良三や芦田均らと共に宮脇も反対票を投じた。その姿勢から、1942年の翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けられずに落選。戦後は元軍人であったために公職追放を受けて立候補できなかった。その後は鉱山会社の経営に携わる。

著作
  • 『粛軍を糺す』(森田書房 1937年)……二・二六事件への軍部の対応を批判した帝国議会での演説記録。「武権政治の弊害」と題した章では、軍部の政治干渉を「我が国体としては絶対に相容れぬもの」と批判している。
エピソード
  • 妻とは見合い結婚。初めて互いの顔を見たときには結婚が決まっていた。妻は「仲人の話とちがって醜男だったのでガッカリした」という(『インド鉄道紀行』)。長吉は結構男前に見えるが……。

三土忠造(みつちちゅうぞう)(1871-1948)

宮脇長吉の兄。東京高等師範学校を首席卒業後、1902年から4年間イギリス・ドイツに留学して教育学・歴史学を学ぶ。1908年の第10回衆議院議員総選挙に政友会から立候補して初当選。以後11期連続当選を果たす。

高橋是清の薫陶を受け側近となる。文部大臣、大蔵大臣、鉄道大臣などをつとめた。戦後は内務大臣などを歴任。

三土興三(1898-1924)

忠造の長男。哲学者。旧制第一高等学校理科から京都帝国大学文学部に進学し、西田幾多郎に学ぶ。卒業後まもなく大谷大学教授。わが国におけるキルケゴール研究の先駆者の一人として知られるが、女給との愛に悩み満25歳で自殺(米原駅構内で東海道線に飛び込んだ)。三木清の回想の中に彼の夭折を惜しむ言葉がある。

宮脇梅吉(1883-1941)

宮脇長吉の弟。第一高等学校・東京帝国大学法科大学を卒業後、統監府判事となり各裁判所で勤務。内務省に転じ各県の警察部長、知事をつとめた。

宮脇愛子(1929 - 2014)

宮脇の前妻。結婚後から美術を学び、彫刻家となる。

小さい頃から近所に住む広津和郎と面識があり、宮脇俊三と交際後に宮脇を広津に紹介した。宮脇は中央公論社入社後、広津和郎の担当者となる。宮脇との離婚後、愛子は磯崎新と知り合い、再婚する。

沢木耕太郎は知人で、『深夜特急』に愛子が登場する。

神谷信子(1914-1986)

宮脇の姉。前衛画家。

実践女学校卒業後、東京府立第十高等女学校で国文を教える傍ら、東郷青児らに師事し画家となる。後年、ニューヨークに渡り、画業の傍ら東洋美術の修復に携わった。

宮脇灯子(1968-)

宮脇の長女(妹がいるはず)。フランス菓子を中心とする料理研究家。著書に『父・宮脇俊三への旅』(角川文庫)がある。

 

 

【出典・参考】

 

宮脇俊三の著作

2023.6.4.更新

河出文庫

  1. 『時刻表2万キロ』 了
  2. 『汽車旅12ヵ月』 了
  3. 『旅の終わりは個室寝台車』 了
  4.  ?(番号空き。出版されたのかどうか未確認)
  5. 『終着駅』(随筆集第4作) 了
  6. 『ローカルバスの終点へ』 了
  7. 『終着駅へ行ってきます』 了

【中公文庫】

  1. 『台湾鉄路千公里 完全版』 了

新潮文庫

  1. 最長片道切符の旅』 了
  2. 『殺意の風景』 未所持(解説は奥野健男光文社文庫で再刊)
  3. 『終着駅は始発駅』(随筆集第1作) 未所持
  4. 『汽車との散歩』(随筆集第2作) 未所持
  5. 『旅は自由席』(随筆集第3作) 未所持
  6. 『途中下車の味』 未所持
  7. 『夢の山岳鉄道』(ヤマケイ文庫で再刊)
  8. 『線路の果てに旅がある』
  9. 『ヨーロッパ鉄道紀行』 未所持
  10. 『線路のない時刻表』 不要(講談社学術文庫で再刊)
  11. 『「最長片道切符の旅」取材ノート』

【角川文庫】

  1. 『時刻表2万キロ』 不要(再刊あり)
  2. 『台湾鉄路千公里』 不要(再刊あり)
  3. シベリア鉄道9400キロ』 了
  4. 『時刻表昭和史』 不要(再刊あり)
  5. 『中国火車旅行』 了
  6. 『インド鉄道紀行』 了
  7. 『鉄道旅行のたのしみ』 未所持
  8. 『私の途中下車人生』 未所持(談話。父について発言あり)
  9. 『日本探見二泊三日』 了
  10. 『駅は見ている』
  11. 『乗る旅・読む旅』 未所持(文庫解説・書評も掲載)
  12. 『鉄道廃線跡の旅』(単行本〔旧題『七つの廃線跡角川書店〕にあった写真・図版は収録なし)

角川ソフィア文庫

  1. 『増補版 時刻表昭和史』 了

光文社文庫

  1. 『殺意の風景』 (新潮社版の再刊。著者あとがきなし)

【文春文庫】

  1. 『時刻表おくのほそ道』
  2. 『椰子が笑う汽車は行く』
  3. 『汽車旅は地球の果てへ』
  4. 『失われた鉄道を求めて』
  5. 『韓国・サハリン鉄道紀行』
  6. 『豪華列車はケープタウン行き』

集英社文庫

  1. 『鉄道旅行のたのしみ』(角川文庫で再刊)

【徳間文庫】

  1. 『車窓はテレビより面白い』

【ヤマケイ文庫】(山と溪谷社

  1. 『夢の山岳鉄道』 所持(新潮文庫からの再刊)

講談社文庫】

  1. 『古代史紀行』
  2. 『平安鎌倉史紀行』
  3. 『室町戦国史紀行』
  4. 徳川家康タイムトラベル』

講談社学術文庫

  1. 『全線開通版 線路のない時刻表』 了

講談社現代新書

  1. 『時刻表ひとり旅』 了

【単行本】

  1. 『時刻表・駅・切符:行先不明列車・出発進行の巻』徳間書店原田勝正との共著)
  2. 『昭和八年澁谷驛』PHP研究所
  3. 史記のつまみぐい』新潮社 了
  4. 宮脇灯子『父・宮脇俊三への旅』角川文庫 未所持
  5. 『鉄道に生きる人たち:宮脇俊三対話集』中央書院 (対話集)
  6. ダイヤ改正の話:宮脇俊三対話集』中央書院 (対話集)

 

 

池波正太郎の著作【食と旅と映画 関係】

2023.2.9.更新

 

新潮文庫

  1. 『食卓の情景』 了
  2. 『散歩のとき何か食べたくなって』 了
  3. 『日曜日の万年筆』
  4. 『男の作法』 了
  5. 『むかしの味』 了
  6. 池波正太郎の銀座日記〔全〕』
  7. 『江戸の味を食べたくなって』
  8. 『映画を見ると得をする』

【中公文庫】

  1. 『食卓のつぶやき』 了
  2. 『チキンライスと旅の空』
  3. 『青春の忘れもの 増補版』

【文春文庫】

  1. 『夜明けのブランデー』
  2. 『あるシネマディクトの旅』 了
  3. 『ル・パスタン Le passe-temps』

朝日文庫

  1. 『一年の風景』 了

 

 

映画『ひまわり』(1970年)

映画『ひまわり』は1970年公開の映画(イタリア・フランス・ソ連・米国の合作)。1964年のイタリア・ソ連合作の戦争映画『イタリアの勇士たちよ』に引き続き、冷戦時代に西側スタッフがソ連ロケを認められた作品。

キャスト

ソフィア・ローレン(1934-)

イタリアの名女優。代表作に『黒い蘭』(1958年)、ふたりの女(1960年)など。

マルチェロ・マストロヤンニ (1924-96)

イタリアの名優。ソフィア・ローレンフェデリコ・フェリーニ監督との共演が多い。カトリーヌ・ドヌーヴとの間に一女がいる。

代表作に甘い生活(1960年。フェリーニ監督)、『イタリア式離婚狂想曲』(1962年)、『8 1/2』(1963年。フェリーニ監督)、『ああ結婚』(1964年。デ・シーカ監督)、『ひまわり』(1970年)、『ジェラシー』(1970年)、『最後の晩餐』(1973年)、『特別な一日』(1978年)、『黒い瞳』(1987年?)。

リュドミラ・サベーリエワ(1942-)

1962年レニングラード・バレエ学校(現ワガノワ・バレエ・アカデミー)を卒業し、レニングラード・キーロフ歌劇場(現マリインスキー劇場)の一員となる。セルゲイ・ボンダルチュク監督*1戦争と平和*2にナターシャ・ロストワ役で出演。演技も初めてであった。

製作

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ(1901-74)

代表作に自転車泥棒(1948年)、ミラノの奇蹟(1951年)、昨日・今日・明日(1963年。ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニ主演)、ああ結婚(1964年)など。俳優業でも高い評価を受けた。

音楽:ヘンリー・マンシーニ(1924-94)

ジュリアード音楽院出身。

代表作にティファニーで朝食を(1961年。ムーン・リバーが有名)、刑事コロンボのテーマ曲など。

印象的な場面

(ジョバンナが列車に乗って去っていったあと新築高層アパートに引っ越したが、食事に手を付けずうわの空で窓の外を見ているアントニオに対し)

マーシャ「あの人のことが忘れられないんでしょう? 会いにいらしてもいいのよ。何も言わないで。ただ私……いつまでも待っています」

 

(イタリアに戻ったアントニオからの一回目の電話の最後)

アントニオ「そうだね、さよなら、ジョバンナ」

ジョバンナ「はぁ……(数秒の沈黙のあと)さよならアント それじゃ」

 

(深夜、アントニオがジョバンナの家に訪れ、これまでの経緯を話したあと)

ジョバンナ「礼を言って去ればいいのに。あなたはとどまって、子供まで作った」

アントニオ「あの家しかないと思った。この世の中で頼れるところは」「あの時、俺は、一度死んだんだと思う。そして別人に……。身近に死が迫ると人間というものは変わるんだ。感じ方でさえ。うまく説明できないけど……。あ……彼女といると安らぐことができた。フッ……でもどうやったら君にうまく理解してもらえるんだろうか? ここに来るまでは簡単に説明できると思っていた。戦争は残酷だよ。戦争はなにもかも残酷にする。そうなんだジョバンナ。いや、辛すぎたんだ……。どうしてこんなことに……」

しばらくの沈黙、互いにみつめあう。アントニオの説明に納得できなかったか、あるいは未練を断ち切るためか、ジョバンナが首を振る。「でも……そうだロウソク」と言って立ち上がる。

「やりなおそう」「やりなおすなんてできるはずがないじゃない」

二人は抱き合い、キスをすると赤子の鳴き声が。「赤ん坊がいるの。あなたにも子供がいるのでしょう。子供たちを犠牲にはできない」「その子の名前は?」「アントニオよ」「俺の名前?」「いいえ、聖アントニオよ」

 

駅の場面。アントニオは乗った列車の階段に無表情で立ち、ジョバンナはホームに立つ。列車が出発する。

感想

  • 列車の場面が多い。
  • アントニオとマーシャが暮らす町(ウクライナ)に原子力発電所がある。しかもそれを目立たせるようなアングルで撮影されており、これはソ連の要望か。
  • カメラワークは少し稚拙に感じる。
  • ソフィアのもったいぶった演技、マルチェロの渋みのある表情に対し、リュドミラのおそるおそるの演技が対照的。田舎の素朴さが出ていい。
  • アントニオとマーシャはなぜ引っ越しをしたのか

【出典・参考】

*1:代表作に『人間の運命』(1959年)。ショーロホフの同名小説が原作

*2:全四部作。1967年に完結。史上最も高額な制作費がかかった映画と言われる。現在価値で1000億円か