橋川文三と丸山眞男

橋川文三は1922年生まれで、丸山眞男の8歳下。東京帝大時代(卒業後?)に丸山のゼミで日本政治思想史を学ぶ。のち明治大学教授。1960年『日本浪曼派批判序説』を刊行し、戦後は黙殺されていた日本浪漫派の意義を問い直した。

丸山眞男

戦前の「超国家主義」を軍国主義ナショナリズムとして批判

橋川文三

超国家主義」を、生の拠り所である精神の故郷を失った当時の青年たちの自我の問題に起因するものとして捉え、丸山の見方を根底的に覆した。

 

近代主義のエリートだった丸山は西洋をモデルとしてものを考えたが、若き日に「日本浪漫派」の保田與重郎に惹かれた橋川は日本の歴史に愛情を持ち、日本人の最深部に絞殺の測鉛を垂らした。その文学的感受性の豊かさは乃木希典大将の「ロヤルティ」の根源を明らかにした日本思想史の傑作「乃木伝説の思想」などにも表れている。乃木をいわゆる軍神ではなく悲劇的な魂を持った詩人と見る透徹した眼差しがある。

渡辺京二は橋川『幕末明治人物誌』(中公文庫)の解説で、「橋川の仕事は少数者によってであれ、記憶され愛読され続けるだろう」と書く。

橋川の『明治の栄光』は「日本の百年」シリーズの第四巻であり、1900年から1912年までの期間の日本の歴史を扱っている。橋川は「この期間における最大の国民的事件は日露戦争と明治大帝の死、明治の終焉」と書く。この巻のタイトルが「明治の栄光」であるのは、明治という時代がひとつの叙事詩であったことを示している。

橋川は「この時期のことを日本国家の『古き良き時代』とみなすことは必ずしも不当ではない」「体制への満足と未来への楽観が支配していた時代」であり、その国民心理のシンボルが「明治大帝」であったとしている。

戦後の日本には、繁栄はあったが栄光はなかった。もし、未来への悲観が戦後の経済的な繁栄が失われていくことに由来するならば、そのような悲劇はノスタルジーに過ぎない「明治の栄光」は物質的な面ではなく「明治の精神」の偉大さにあり、それは日露戦争において発揮され、「明治大帝」の死に際して乃木大将の悲劇を生んだ。そして、次代以降の日本人に栄光の時代として記憶されたのである。

栄光は精神の義から生まれる詩である。(以上、新保祐司

 

コメント

「昭和の精神」というものはなかったのか。「明治の栄光」は物質的な面も少なくないように思える。

 

【出典・参考】